坂東三津五郎

『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』(岩波書店)
本書は、大変丁寧な語り口でありながら、話の進め方に一本筋が通っていて、かつ現在の歌舞伎が抱える問題の核心を突いた部分が多く、なるほどと頷きながら読み進めているうちに、あっという間に読み終わってしまいました。今多くの歌舞伎の舞台に立って芯となる役を幅広く務め、どれも高い評価を受けている旬の役者の発言ですから、説得力もありまた切り口も鋭い。もっと続きを読みたいと思わせるような本には最近なかなかめぐり合いませんが、この本はその稀有な例です。

今でこそ三津五郎は歌舞伎の屋台骨を背負っている花形役者の一人ですが、ご本人が率直に書いているように「ぼくも、十代の頃、歌舞伎俳優としてスタートした時代は、ずいぶん悔しい思いをしました。ぼくとか勘三郎さんの世代は、よい場所をぜんぜん与えられなかった。二人ともほんとうに芯でできるようになったのは、三十半ばをすぎてからですからね」。それは当時團十郎、幸四郎、松緑、勘三郎(いずれも先代、松緑は先々代)、歌右衛門、梅幸の六人が健在で歌舞伎界を引っ張っていったからでしょう。

しかも、三津五郎家は祖父の八代目三津五郎と父の当時蓑助、後の九代目三津五郎は、片や学者肌の人、こなた職人的な人だったから、相容れないものがあったとのこと。くわえて八代目が再婚したこともあって、ふぐ中毒により急逝した後も名跡の継承でもめたようです。したがって、九代目三津五郎を襲名するまで父蓑助は「現実としては菊五郎劇団の中間管理職」であり、当代三津五郎はその息子であるから、たとえ三津五郎家の跡取りだとしても、当時の勘九郎とは会社(つまり松竹)の扱いも同じではなく、悔しい思いをしたといいます。

しかし、その三津五郎に目をかけてくれたのが二代目松緑である、と感謝しています。二代目が自分の藝を遺すべき子息辰之助(三代目松緑を追贈)を喪ったことによる喪失感も大きく、菊五郎劇団お得意の世話物を中心にいろいろと教えてもらったことで今の三津五郎があるといいます。もちろんそれだけではありません。坂東流の家元の跡取りとしての立場もあり、踊りも含めての三津五郎の絶えざる稽古と練磨が今日の三津五郎を作り上げてきたことが本書を読んでよく分かります。

本書は「歌舞伎を観始めてひと通り知った上でさらに奥深い世界へと導ける、中級者向けを対象として」最近ご本人が演じてきた演目を中心にして、あくまで演じる側から解説を加えていますから、その舞台を観たものにとってはなるほどと思ったり、気がつかなかった点を教えられたりして、自ずとまた次の舞台を観たくなり、さらには違う役者の舞台とも比べたくなります。

その他まだまだ本書の魅力は語り尽くせませんが、以下にいくつかの章で印象に残る言葉に触れておきます。実際に三津五郎が目の前で語ってと錯覚させるような分かりやすく流麗な文章になっているのはひとえに編者の長谷部浩の功績です。これは一人でも多くの歌舞伎ファンの方に読んでいただきたいお薦め本です!

”「第一章 世話物は、二十一世紀に生き残れるか」より
 世話物がむずかしい理由のひとつは、主役をやる俳優だけがわかっていてもだめで、アンサンブルで盛り上げていかなければ、芝居が成り立たないところです。息という言葉がありますが、舞台にいる俳優の全員の息が合わなければいけません。
(中略)
 今、ぼくが宗五郎(引用者注、魚屋宗五郎のこと)をやるとなると、三吉でずっと出ていたぼくがいちばん場数を踏んでいるような座組みでやらなければならない。よい脇役が払底している現状で、世話物を引き継いでやっていくのは大変です。

「第二章 踊りの家に生まれて」
 踊りを観るのは、理屈ではありません。
「ああいいね。やはりいいね」
 でいいわけです。
(中略)
 極端に言えば、踊りっていうのは二十分観て、なんて素敵な時間だったんだろうと、そう思っていただければいいわけなんです。
 お客さまにいい気持ちになっていただくために、技術を磨く苦労はしていますよ。それは白鳥が美しく見えても、水面の下では足をバタバタやっているようなものです。

「第三章 時代物の噛みごたえとその深さ」
 よくお客さまから、義太夫狂言は疲れると聞きますが、それはやっている役者もそうなんですよ。世話物を一時間やるのと、時代物の義太夫狂言に二十分出るのと、どちらがえらいかというと、義太夫狂言のほうがえらいんです。骨身に応えるのです。

「第四章 荒事と和事」
 荒事の禁物は、うまいです。うまい荒事は絶対にだめですね。むしろまずいほうがいい。
(中略)
時代物では、いかに肚をつくって、どれだけ内容を詰めるかが重要ですけれども、荒事をやるときは、どれだけ中身を空っぽにするか、余計なことを考えないかが重要なんです。それができれば、すごい荒事になるんだと思います。

「第六章 通し狂言と新作の可能性」
 結論を言うと、古典をきちんと継承していくことと、復活を含めて新作をきちっと作っていくこと。この二つを両輪となって進めていかなければ、歌舞伎は活力を失っていくと思います。
(中略)
自分はスタンダードを、守っていくことが、与えられた使命ではないかと思っています。

「第八章 歌舞伎役者と芸の伝承」
 そう考えると、ぼくの役者としての人生は、これから二十年が勝負だと思います。何をやるか。時間を考えると限りがあります。踊りでいえば、身体が動かなくなっていく。芝居の方は、まだ役を深めていけばいいという考えもあると思いますが、時代物と世話物とでは、体力の消耗度が違います。時代物では、声を出すだけでも、大変ですから、これからは体力と芸とのせめぎ合いになります。

「第九章 歌舞伎よもやま話」
 「歌舞伎の魅力って何ですか」と聞かれることがあります。歌舞伎は魅力だらけなのですが、それがいったいどこにあるのか、わからないから続けているわけです。一言で言えないから、大の男が、みんな死ぬまでやっているわけです。ぼくらが気づいていないところに、まだまだ魅力があるかもしれません。それを、ご自分の感覚で見つけてくださればうれしい。それがまた、歌舞伎の愉しみだろうと思います。”

『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』(岩波書店)
好評だった『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』(岩波書店)の続編的な位置づけの本で、今度は踊り(主に歌舞伎舞踊)について坂東三津五郎が語ったものを長谷部浩氏がまとめたものです。

『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』第二章で三津五郎は
”「踊りを観るのは、理屈ではありません。
「ああいいね。やはりいいね」
でいわけです」”
と語っているが、その考えは今も変わっていない、と言います。

坂東三津五郎は、日本舞踊五大流派の一つである坂東流の家元であることは周知のことでしょう。尾上松緑も藤間勘右衛門として藤間流の家元ですが、もう一方で歌舞伎舞踊の振付をしている勘十郎の流れがあり、坂東流の家元としてすべて仕切りながら、歌舞伎俳優として大役を次々とこなしている三津五郎は異色だと思います。自由に芝居見物が許されなかった大名の奥方や姫君のために、男子禁制の大奥にあがって、女狂言師と称されてその時々に評判の歌舞伎舞踊をお目にかけるとを本業とする女芸人たちが三代目三津五郎の門下になっていたことに坂東流は発すると言われています。そして今でも踊りの神様と語り伝えられる七代目三津五郎が現在の坂東流家元の事実上の始まりです。

その七代目三津五郎が著した『舞踊藝話』があり、当代の三津五郎は「まだ踊っていない演目があるから、舞踊について語るのはおこがましいと思っていたが、舞踊を取り巻く周囲の環境が、七代目の頃と、ずいぶん様変わりしてしまったと思うから」編者の長谷部浩氏の説得に負けて、本書をまとめたとまえがきに書いています。踊りは綺麗だが、難しい、という声をよく聞きますが、本書はその踊りの愉しさを踊りの名手である三津五郎が演者の立場から解き明かしたもの。

本書は、次の三章構成になっています。
第一章 舞踊の本質
第二章 私の踊りをつくってくれた人々
第三章 踊りのさまざま

第一章では、例えばスポーツと比べながら、「これならいい形」とイメージできる形に痛いところまで身体をもってゆくように鍛えあげてゆくことが必要であると説きます。これは日本舞踊の稽古は短い曲を通して教え込むのが普通ですが、そうではなくて「これはこういう振り」「あれはこういう振り」と細かいパーツで出来ている踊りを、パーツに分解してたたき込み、覚えさせ、それから全体を構築する稽古が大事と説明します。また、稽古と本番の舞台は衣裳を付けることにより裾捌きなど勝手が違うこと、さらには最初の部分の「出」は大事だが、「大まかな掴みができればいい」とも言います。

そして何よりも「振りから振りに移る間も踊りなんだよ」といい、なかなか「振りと振りの間を、踊りとしてうまくつなぐことができません」から、その点が「上手いか下手かの大きな分かれ目」との指摘は我々でも日常接している舞台でも肯ける指摘だと思います。

まだまだ示唆に富む部分は多いのですが、それは本書の魅力の一つですから、是非手にとって読んでいただきたいと思います。第二章は、三津五郎の踊りを作ってくれたお師匠さんたちと父である九代目のことが感謝と共に丁寧に語られています。

第三章は、『道成寺』『山帰り』『六歌仙容彩』『傀儡師』(かいらいし)『三社祭』『棒しばり』など、坂東家ゆかりの踊りについて、実際に踊った演者の立場からの具体的かつ詳細に語られています。本書を読んで実際の舞台を観れば、その踊りをより深く理解でき、面白くなると思われます。私個人としては、シャープな踊りが主流の『供奴』が、坂東流では顔も赤く、「踊りも奴らしく、もう少し土臭い、味のある。丸い踊り」という点が新鮮でした。一度是非三津五郎の『供奴』を観たいものです。



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