丸谷才一


『輝く日の宮』(講談社)
作者10年振りの待望の長編小説である。

まず出だしの「花は落花、春は微風の婀娜めく午後、純白の水兵服の上衣に紺の衿、繻子のタイふうはりと結んで・・・(略)」という書き出しから、一気に惹きつけられる。うまい!どこかで読んだことが?と思っているうちに、これが女主人公杉安佐子が少女時代に書いた泉鏡花風の短編小説であることが分かる。それにしても鮮やかな手並みである。

でもこれで驚いてはいけないのであって、後の7つの章の趣向と文体が全て違うのである。学会の報告あり、年表風の恋愛小説があり、シンポジウムがあり、など多彩である。女主人公は18世紀の文学研究者であるが、『芭蕉は何故東北へ行ったのか』という報告を「芭蕉は義経五百年忌をまったく私的に、ひっそりと祀りたくて出かけたのではないか」と想像して、学会の常識に反した画期的な議論を展開するが、権威と聴衆の反応が面白い。

そこで親しくなった学者との同棲が短期間で破れた後、安佐子の前に水会社の部長である魅力的な男、長良豊が現れる。彼との豊かな恋愛の中で、かねてから思っていた『源氏物語』の失われたと言われる「輝く日の宮」の巻についてのある考えを煮詰めて行く。このあたりは日本の幽霊というシンポジウムで源氏の女流専門家との議論で進めてゆく展開は息をもつかせず面白い。この作者は『忠臣蔵とは何か』で日本の歴史と文学に綿々と流れる「御霊信仰」の重要性をあぶりだしたのだが、ここでは『源氏物語』の成立に藤原道長が大きくかかわり、次の7つの点で重要な位置を占めることが明らかにされる。

 @ 雇傭主  A 性的パートナー  B 読者  C 批評家  D 題材の提供者  
 E モデル  F 原稿用紙の提供者

どれもユニークだが、Fの原稿用紙の提供者という視点は今までに無いものではないか?当時は紙は貴重品であり、あの膨大な長編小説を書くには十分紙を提供できる人は道長しかいないというのも納得できる。このような7つの関係から道長は一度は書かれた「輝く日の宮」を捨てさせた、と推定する。そして杉安佐子と長良豊は、あたかも紫式部と藤原道長の関係に限りなく近づき、最後はその境が曖昧となってきて、失われた「輝く日の宮」が姿を現すフィナーレは感動的である。

こう書いてくると、堅苦しい小説と誤解されかねないが、まったく違う。とにかく面白い!としか言いようが無い。
日本の小説には珍しい知的探求に満ち満ちた刺激の書であると同時に、上品なエロチズムが漂う大人の恋愛小説である。
『忠臣蔵とは何か』(講談社文芸文庫)
この本をひもとくのは何回目か覚えていないが、いつ読んでも新鮮な刺激に満ちていて、興奮する。今までにない斬新な切り口から、討ち入りという事件とそれを劇化した忠臣蔵の全体像を分析して、何故日本人はこれほど忠臣蔵を好むのかを抉り出す。

討ち入りというと浪士皆お揃いの装束(あれは大名の火事装束だそうだ)を思い出すが、あれは劇や映画などの影響からそう思っているだけで、史実はばらばらであったという。それくらい、我々は事件そのものより劇化された『仮名手本忠臣蔵』の強烈なイメージに支配されている。

今は殆ど廃れてしまったが、江戸時代の正月狂言には吉例として『曽我狂言』が出されつづけた。これは『曽我物語』を題材にして、手を変え品を変え、いろいろと趣向をこらして、曽我十郎・五郎が工藤祐経を親の仇と狙う話である。しかし、工藤祐経を首尾よく討ったものの、五郎は捕らえられ、時の将軍源頼朝に処刑される。ここから、五郎は御霊に通づることから、御霊信仰の対象(菅原道真や平将門もそう)となり、曽我狂言は御霊となった五郎の荒ぶる魂を鎮めるための江戸庶民の呪術的・宗教的祭祀となったのである。

殿中松の廊下の浅野内匠守の吉良上野介への刃傷は、はっきり言って原因はよくわからない。賄賂をしなかったというようなことではない。やはり癇の強い内匠守の側に何か問題があったのだろう。結果として、即日切腹となり、赤穂藩はお家取り潰しとなる。

時あたかも五代将軍綱吉の治世、天下の悪法生類憐れみの令で庶民の怨嗟の声は高まっていた。庶民は非業の死を遂げた内匠守の霊を鎮めるために赤穂浪士の仇討ちを期待した。吉良上野介=工藤祐経、徳川綱吉=源頼朝とみなして曽我兄弟のような仇討ちを・・。

赤穂浪士討ち入りは首尾よく行われ、庶民は御霊信仰の力を思い知らされ、正月の曽我狂言を続けるようになる。そして、綱吉の死とそれに続く生類憐れみの令の廃止。正月の曽我狂言は吉例となり1世紀以上も続くことになる。
そして、『仮名手本忠臣蔵』の完成。御霊鎮めの心はここにこめられ、江戸庶民の呪術的・宗教的祭祀は完成し、以後日本人は300年にわたってこの狂言を愛好してゆくことになる。

『女ざかり」(文藝春秋)
先般来整理した蔵書のなかから久しぶりに本棚に並べることができた丸谷才一の第四作目の長編小説。現在は文春文庫で入手できるこの長編は1993年の初版発行時に購入したことは奥付で分かるから、再読のつもりで手にとって読み始めたところ、途中からどうやら全編通読していない!と判明。当時仕事の忙しさにかまけて何冊も中途挫折した本があったから、これもその一冊だったようだ。

大新聞の論説委員である美しい女主人公南弓子は、書いた社説がもとで政府与党に狙い打ちされ、論説委員の地位が危うくなる。弓子は、恋人の哲学者、元女優の叔母などを総動員して反撃に出るが、防戦は功を奏するか。新社屋の払い下げ問題が絡むスリリングな展開、固唾をのむ面白さ!(本書初版帯から)

しかし、今度読んでみてなぜ自分がかって読み通せなかったのか首を傾げるほどの面白さである。ストーリーも新聞社の論説委員室を舞台に大蔵官僚、与党幹事長、首相なども登場し、次第に大きな広がりを見せるのだが、この長編小説の面白さは、それだけではない。ここかしこに仕掛けられた技法、例えば新聞の社説の書き方、元女優の叔母の思い出話、憲法廃止論、哲学者の贈与論などは小説そっちのけの面白さで、うまいものだと舌を巻く。しかも著者が主として文藝春秋などに発表している雑学エッセイ同様溢れんばかりのネタ満載の雑学、ユーモアが全編にちりばめられていて、ただただ感心するばかりである。現代的な話であっても旧仮名遣いが似合っているのだから、不思議である。

それでいて、登場人物たちは浦野という文章が書けない社会部出身の同僚論説委員(しかも弓子に勝手に恋愛感情をもつ)、娘の恋人の日本史研究者、有名な書家、カラオケにあわせて座頭市を練習する与党幹事長、叔母の元恋人だった首相など実に人間臭い。それら社会的地位の高い登場人物が綾なす世界は紛れもなく濃厚で上質な風俗小説と言える。

日本は世界でも珍しい贈与大国であるとは弓子の恋人の哲学者の持論だが、一見小説とは無関係のように見える。しかし実はその贈与は、古代では契約を意味していた。その贈与論で弓子の危機が解決したことは日本文化が古代の色を濃く残している証拠であり、実は作者が本長編で意図した主題でもあるだ。しかも、このような一見難解な問題を小説の形で血肉化した作者の手腕はおそるべきものだといえよう。この長編小説を読んでいる時の充実感は何ものにも替え難いものだった。
『文学のレッスン』(新潮社)
元『文學界』編集長で、エッセイスト湯川豊を聞き手とした丸谷才一の分かりやすく、少し挑発的な文学概論講義。本書の特色としては文学をジャンル別に論じていることがあげられ、【短編小説】【長編小説】【伝記・自伝】【歴史】【批評】【エッセイ】【戯曲】【詩】の8つのジャンルを取り上げて、縦横無尽に文学を語っている。丸谷才一はジョイスのすぐれた研究と翻訳でも知られているが、その文学の基本的スタンスはイギリス文学にあると思われる。

したがって、私の理解が不十分な点もあるかもしれないが、イギリスでは長編小説の格が高く、短編小説は軽んじられる傾向にあり、意外にもアメリカでは偉大な長編小説が出ていないという。この指摘は発表するメディアと密接な関係にあったこととも結びつく。日本の明治以降の文学の動向に照らしてみても納得出来る説明である。

また、【伝記・自伝】【歴史】がなぜイギリスで繁栄したか等の解説も今までにない視点で新鮮で、文学を広い範囲で捉えていて、興味深い。【戯曲】も「芝居には色気が大事だ」と刺激的だが、我が意を得たりと思うような論点である。



トップへ
トップへ
戻る
戻る