藤沢周平


『三屋清左衛門残日録』(文芸春秋)
ほぼ同時期に書かれた『蝉しぐれ』と並ぶ著者の代表作とも言える武家物。しかし、片や『蝉しぐれ』が主人公の成長を扱った一種の教養小説とも言えるものだが、こちらは珍しいことに三屋家の当主を子息に譲り、隠居となった元用人の隠居後の生活を描いている短編連作集である。

仕事で定年後の生活設計の講演らしきことをした時、この小説を題材に取り上げた記憶がある。つまり、今の日本の高齢社会を先取りしたような小説なのである。主人公はその努力が認められて、累進し用人まで登りつめた男。妻も無くし、隠居後は殿様の許しを得て立てた隠居部屋で暮らし、日中のお相手は子息の嫁里江一人。当然気楽と思った隠居生活に清左衛門は、最初寂寥感を覚える。ここらあたりは、会社人間として仕事のみの生活を続けた団塊の世代の共感を呼ぶところである。やることがないのである。しかし、そこで昔習った学問と剣術を再び習おうと、塾や道場に通いはじめる。後は釣りである。やはり人間経済的な基盤が重要なことは言うまでも無いのだが、生きがいがなければまたやっていけない。

幸い清左衛門には、まだ現役の町奉行佐伯熊太という親友がいる。切れ者の用人を彼はただでは放って置かない。自分の手に余ることを次第に持ち込んでくる。はじめは渋っていた清左衛門もその解決に手を貸すようになる。また昔の友人や江戸在府中に関わった人たちの事件も起きる。それによって生きがいを見出す主人公。そして、次第に藩全体を巻き込む政争に元用人も否応無しに関わって行く。藤沢周平の武家物でお馴染みの架空の藩ー海坂藩が舞台だが、やはりその自然描写や北国特有の食べ物、そして、男の友情など、読む者の心を和ませる場面が多い。また行きつけの小料理屋のおかみとの淡い交情もある。さすがにこの辺は小説だが、決して絵空事ではない、真実に迫った展開である。

結局、政争は清左衛門が付いた一派の勝利に終わり、おかみも田舎に帰り、また平凡な隠居生活がはじまって、この小説は終わる。しかし、この小説の読後感の清清しさはどう表現したらいいのだろうか?隠居してもひたむきに生きる主人公の姿がやはり憧憬を呼ぶからなのだろうか?たしかに理想的過ぎる生活かもしれない。だが、そこには現代に生きる我々がこれから現役を引退して、年金生活に入った時に直面する問題点を物語として抉り出し、回答を与えている小説だと思う。これから益々読まれていくであろう小説であろう。
『用心棒日月抄』シリーズ(新潮社)
このシリーズを再読してみて、あらためてこの作家の代表作だと思った。第1作目の『用心棒日月抄』は、お家騒動から脱藩した主人公青江又八郎が、江戸の市井のなかで妾宅の飼い犬や大店の娘の用心棒などの稼業をするうちに、知らず知らずに赤穂浪士の討ち入りに絡むようになる。口入屋相模屋の狸のような主人吉蔵や用心棒の同僚の細谷源太夫などもユーモラスに描かれていて、楽しい。作者の初期の作品には暗い色調を帯びたものが多いだけに、この作品の一味違った明るさとユーモアは際立っている。これは、作者の郷土庄内地方をモデルにした海坂藩ものであるとともに、江戸庶民の生活も活写されている市井物で、しかも赤穂浪士異聞でもあるという、この一冊で時代小説のいろいろな面が味わえる贅沢なものである。

『弧剣』と『刺客』は『用心棒日月抄』の続編にあたる連作短編集、『凶刃』はその十六年後を描く長編である。

『弧剣』では一旦帰藩した主人公青江又八郎が、藩の運命を左右する機密書類を持って江戸へ潜入した大富静馬を追って、中老の密命を帯びて再度脱藩し、身過ぎ世過ぎの用心棒をしながら、公儀隠密との三つ巴の闘いを繰り広げる。前作の最後に又八郎の命を狙い、逆に傷の手当てを受けて助けられた嗅ぎ足と呼ばれる藩の江戸忍びの女頭領佐知が、今度は手足となって又八郎を助ける。そして使命を果たした頃には、二人の交情は深まる。江戸市井の風俗を細やかに描きながら、斬り合いの場面も迫力があり、あっという間に読み終えてしまう。

『刺客』は、江戸忍びの抹殺を図るため放たれた五人の刺客から佐知たち江戸の嗅ぎ足を守るよう、佐知の父である陰の頭領に命じられて、またまた脱藩して江戸へ行く又八郎の活躍を描く。手強い刺客相手に、手を携えて立ち向かってゆく二人。三作のなかでもっとも激しい闘いのなかに、二人の気持ちはさらに強く結ばれて行く。もちろん、従来同様の面白さと、どことないユーモアをも漂わせる作品でもある。

『凶刃』は既に中年となり藩の要職にある又八郎が、十六年振りに江戸へ出て来て、藩の秘事に係わる問題を追って、佐知とともに謎を追って行く。謎が謎を呼ぶ推理小説的な味わいもあり、読み応えのある長編である。また用心棒の相棒だった細谷源太夫の境遇の変化も年月の経過を感じさせて、哀切なものがある。気になる又八郎と佐知の関係もほろ苦いながらも読者を納得させる明るい決着がついて、このシリーズは終わる。

やはりこの四作のシリーズは続けて読むとその面白さが倍増する。藤沢周平の代表作として、多くの人に長く読まれ続ける傑作シリーズあろう。
『無用の隠密』−未刊行初期短編(文春文庫)
何故かこの平成18年11月に刊行された未刊行初期短編の単行本を読んでいなかった。しかし、幸いなことに今回文庫化される際、あらたに発見された『浮世絵師』を加えた十五本の初期短編集となった。この「浮世絵師」は、作者の初期の代表作である『溟い海』(オール読物新人賞受賞作)と同じく、葛飾北斎を主人公にしている。また『北斎戯画』もそれ以前に書いているので、浮世絵と北斎について藤沢周平の並々ならぬ愛着が見てとれる。

これらの初期短編は作者が昭和37年から39年にかけて読物雑誌に発表したまま眠っていたものであるが、いずれの作品も後の傑作群を思わせる清冽さと優しさに溢れる作品ばかりである。海坂藩こそまだ登場しないが、作品の約半数が故郷である庄内または羽前国を舞台にしていて、読者には懐かしい世界である。収録された作品のなかでは、歴史小説の体裁をとりながら武将の純愛をも描く『残照十五里ケ原』、『長門守の陰謀』に連なる傑作の『上意討』、そして表題作である隠密の悲哀を描く『無用の隠密』がとりわけ印象的である。藤沢周平ファンは当然ながら、時代小説ファンには見逃せない短編集であろう。



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