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1964年に刊行された、新撰組の土方歳三の痛快な生き様を描いた長編小説。ほぼ同時期にあの出世作『竜馬が行く』を書いていたというのが興味深い。ある意味で幕末・明治維新を全く正反対に生きた男を書いた訳だから、書きにくいような気もするが、この小説を読んでいると、とてもそうは思えない。
司馬遼太郎は、土方を賛美も否定もしていない。ただ武州多摩の一介の百姓上がりの不良少年(「茨垣」、バラガキというらしい)が、滅び行く徳川幕府に節を立てて、幕末の動乱を颯爽と駆け抜けてゆく様を、その生涯に寄り添ってダイナミックに描いて行く。たしかに土方には、幕末の志士のような政治思想は無い。あるのは、新撰組の組織者、戊辰戦争の戦争屋、喧嘩屋であろう。その点、まだ近藤勇の方が古いかもしれないが、政治思想らしきものがあった。しかし、それがまた近藤勇の弱みだっただろう。土方は徹している、自分は喧嘩屋だと。
だから、この小説の最後のほうで、函館に立て篭もった旧幕軍にいるフランス人の軍事教師が土方のことを、「芸術家(アルテスト)か?」と質問している。ある意味で大変似合わないとも言えるが、この男は俳句をやり、「豊玉」という俳号を持っていたらしい。この俳句を書き付ける姿を見て、フランス人は言ったとあるが、言いえて妙で、この喧嘩屋は芸術家と同じく無償で行動し、喧嘩そのものを目的に生きた。やはり、芸術家と同じだと作者は言いたかったようだ。だから、土方の無償で純粋に行動する生き方には、とても共感を覚えてしまう。
お雪という女性との交情も哀切である。土方らしい、ある意味で純な愛し方で最後の命の炎を燃やす。人斬りと戦役ばかりこの小説で、不思議に深く心に残る場面だ。
後年の『坂の上の雲』のように、ここでは俯瞰的な小説描写は少なく、文明論的な言及は殆ど無い。あくまで土方の立場から書いて行ったこの小説によって、司馬遼太郎はある壮烈な人生を生き抜いた男ー漢(おとこ)を描き切って、その初期の代表作たらしめたのである。またこれによって土方歳三は、永遠の生命を獲得したと言える。 |
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澁澤龍彦『高丘親王航海記』を読んだことから、司馬遼太郎『空海の風景』をまた読みたくなり、かなり時間をかけながら再読した。お大師さまと今でも崇められている弘法大師ー空海は密教という宗教の枠を超えた宇宙の普遍原理を体系立てた偉大なる存在であるがゆえに、またはるか遠い時代の人であるがゆえに、作者はその姿を自分のための風景として浮かび上がらせ、その実体に出会うことが出来ないか?とこの作品を書いたのだ、とあらためてその感を深くした。
正直、密教そして空海が打ち立てた真言宗そのものが普遍的な宗教であるとは、この作品を読んでも無宗教者の自分には理解が及ばないことには変わりはないが、作者が見たい、会いたいと願った空海の姿は見事に、ある意味では生々しく描き出されている。勿論、日本人の類型を超越した多芸の人ー一種の超人である。空海は世を嫌って宗教家になったのではなく、密教に出会い、インドでも中国でもなしえなかった体系化を成し遂げ、天皇や国家をも自分の支配下におく精神世界の王たらんとしたことが本書で明らかにされる。しかも、政治感覚も芸術にも鋭い感性を発揮した巨人、それでいてどこか山師のような胡散臭さもある。また、天台宗の創始者最澄が密教について辞を低くして教えを請い続けるのに対して、空海は最初こそ自分が唐から持ち帰った貴重な書物を貸すが、後には拒絶・絶交するに至る一連の経緯は論理の上では正しいとしても、空海の持つ人間性のえげつなさ・酷薄さである点も容赦なく抉り出されている。
高野山の創設は空海が唐の長安が懐かしく、その復元を試みたのではないかとの作者の推測も、実際の高野山を見たことが無い人間がいう資格もないであろうが、空海の本音は唐から帰国したくなかったとすれば、さもありなんと納得するところがある。高野山では、空海は死んだのではなく、入定した(生死を超越した境地に入ること)という事実または思想があるという。死後一千二百年近く経っても、そのような思想が連綿と続いていることは、やはり驚異的であり、空海は日本人と言うよりやはり世界的な普遍人と呼ぶのが相応しいであろう。しかし、あまりにも偉大でありその体系を完璧に完成させたがために、空海は後継者に恵まれていない。しかも、元々密教に内包されていた一種の性の肯定が、「真言立川流」と呼ばれる亜流があたかも密教の正統であるかのごとく瀰漫した事態を招いたことも、その後の真言宗と宗教界に大きな爪あとを残したものと思われる。空海は省みられる人であることには間違いないが、やはり現代からはるか遠い人でもあるようだ。 |
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多くの歴史上の人物を主人公にして長編小説を書き続けてきた作者の最後の長編小説となったものである。モンゴル語を専攻した司馬遼太郎の思いがこめられているような題名であるが、主な舞台は勃興期にある女真、後の清である。
豊臣政権から徳川政権へと移行した日本の平戸島に漂流してきた女真族の貴族の娘アビアを、平戸藩の庄助という下級武士が藩の命令で、隠密に女真の地、すなわち満州まで送り届ける物語が主すじとなっている。それまでの作者が選んできた主人公とは一味も二味も異なって、無名の(恐らく架空の)主人公なのであろうが、当時の日本、そして衰えつつある大明帝国、勢いを増す女真族の三者の織り成す微妙な国際関係のはざまで翻弄されつつ、二人は逞しく生き、いつか結ばれてゆく。そして、鎖国により故国日本へ表向き戻れなくなった庄助とアビアは、中国人として帰るところで、この小説は終わる。二人のその後については作者も分からないという書き方をしているのは、読者の想像にまかせるということであろう。広大な中国大陸のような茫漠としたラストである。
伝奇的小説から出発して、次第に小説と文明批評的エッセィが合体したような独自の小説スタイルを確立した作者が、ここではもちろん余談として語る部分もあるものの、二人の主人公の交歓も織り交ぜながら、転換期の歴史とそこに生きる個人を壮大なスケールで、しかし肩肘の張らない伸びやかな筆致でおおらかに描いていて、爽やかな味がある。また、どことなく春風駘蕩としたユーモアもある。重量級の長編小説も悪くはないが、初期の伝奇的小説と歴史小説がうまく融合したこのような作品を書ける作者が、本作で小説の筆を折ったのも、返す返す惜しい気がした。 |
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司馬遼太郎の作品のなかで折にふれて読み返す作品がいくつかあるが、その中でもこの『項羽と劉邦』を読み返したのは今回で何回目だろうか!?汲めども尽きせぬ物語の展開と魅力ある人物像は読み飽きない。作者がそのペンネームに「司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という意味を込めたというが、主に日本の歴史小説を書いていても、常に司馬遷が書いた『史記』が念頭にあって、いずれ司馬遼太郎の史記を書いてみたいと思っていたに違いない。
満を持して書かれたのがこの『項羽と劉邦』。何故田舎のごろつきだった劉邦が英雄である項羽に連戦連敗しながらも中国大陸で覇権を握ることができたのか?はトップ論や組織論的にも興味は尽きない。ただ、結論的に言えるのは、項羽はあまりにも本人が勇壮無類で常に先陣を切って戦った結果、支える幕僚や武将の人材が育たなかったからだと思える。その点劉邦はどこか風船球のような「空虚さ」があり、それでいて周囲のものが自分たちが支えなければいけないと思わせる雰囲気のようなものがあり、また常に最後の決断はした。だから、張良や韓信、陳平のようなよき人材を得ることが出来たのであろう。これらの武将たちのエピソードも生き生きと描かれている。
また、もう一つ作者が強調している点は、中国大陸の歴史は常に流民の歴史であり、その流民をいかに食べさせるか、を劉邦は考えたということである。蕭何という兵站を担うよき部下を持ち、それによって流民たちを次第におのれの傘下に納めることに成功したことが劉邦が漢帝国をうちたて、高祖と言われるようになった最大の要因であろう。
それにしても敗者の項羽に対する作者の目も温かいものがある。この両雄の息詰まるような戦いの物語は、紀元前の歴史とは思えないような人間味溢れる傑作で、永遠に読み継がれる作品であろう。 |
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完結した『司馬遼太郎短編全集』(文藝春秋、全12巻)を、図書館から借りられるものは手当たり次第借りて、読んでいる。、司馬遼太郎と言えば、どうしても数多の長編小説群に目が行き、現に自分もその魅力にはまった一人である。しかし、その陰に隠れて、氏がまた短編の名手だったことは忘れがちである。
この全集は、その全貌を知るのに絶好で、執筆年代順に構成された全集である。そのうち1968年に書かれた一編『故郷忘じがたく候』を読んで、深く胸打たれた。薩摩焼という陶器を焼いている薩摩の沈寿官氏を描いた歴史的エッセーのごとき短編である。
秀吉の朝鮮の役に連れて来られた朝鮮の陶芸家一族の長で、四百年近くその氏名も変えず、苗代川という故郷の地に似た薩摩の土地で、ただひたすら陶器を焼いている。しかし、彼らはれっきとした日本人であり、もう母国語はほとんどと言っていいほど話せない。しかし、「故郷忘(ぼう)じがたく候」と、伝統と歴史を守り、朝鮮開国の祖も祭ってもいる。作者の描く当代の風貌は、まぎれもない薩摩隼人風であり、人当たりも柔らかい。しかし、そのなかに刻み込まれた日本と朝鮮の関係史の陰影の深さには、唖然として言う言葉もない。彼は三十六年間の日本の圧制を語る韓国の若者の前で言う「あなた方が三十六年をいうなら、私は三百七十年をいわねばならない」と。 |
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