塩野七生


『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(新潮社)
この何とも魅力的なタイトルに魅かれて読んだ時の興奮は今もって忘れられない。当時まだ自分も青臭く、大学で経済史を中心に歴史を学んでいても、どうもマルクス経済学の影響から脱しきれず、社会史に拘っていた。ところが学べば学ぶほど人間が不在になるという矛盾にぶつかる。人間のことを知りたくて学んだ歴史に人間がいないのはやはりどこかおかしい。

その頃いろいろ歴史小説も読み漁ったが、歴史から離れているものも多かった。だから、この本を読んだ時はこれだ!と思ったのである。これは歴史にそってはいるが歴史だけではなく、と言って小説とも伝記ともつかず、その全てであるとは沢木耕太郎が言って言葉だと思うが、まさに至言であろう。ここには生き生きとした人間が描かれていた!

ボルジアという名前は魅力的だがまた毒を持った名前だ。たしかに先人の本に囚われているきらいがあったが、やはりあまりにも悪名高い。だがこの本に出て来るチェーザレはどうだ。何とも鮮烈かつ行動的な魅力溢れる男である。法王の庶子に生まれて一旦は枢機卿として緋の衣を纏うが、自らの意思でそれを脱ぎ捨てるや否や、教会軍の隊長として次々と各地の僭主を討伐して教会領を回復して行く。彼の行くところ敵無く、当時まだ言葉としても珍しかった「イタリア」統一を目指していく。そしてその天才とも言うべき権謀術数により統一の野望は目前にまで来たが、父法王の死と病により潰え去る。

作者は先人の垢にまみれたチェーザレをマキアヴェッリの目なども参考にしてであろう、まったく異なった実像を明らかにする。その行動はただただ前進あるのみ。しかし当時の複雑な政治情勢を見極めた怜悧な読みに裏打ちされているから、打つ手には誤りは無い。部下の反乱にあった時にもその特性は遺憾なく発揮される。そして、その事後処理の冷酷さ。だが、何故か我々を惹き付けて止まない。恐らくマキアヴェッリが後に『君主論』を書いた理由もその魅力ゆえであろう。あのレオナルド・ダ・ヴィンチもその一人なのである。

しかし、何よりもこの作品は作者自らがチェーザレに惚れ抜いて書いたからこそ出来上がった稀有な作品であろう。最後の彼の死を描く筆致には深い愛情を感じた。31年の短い生涯をこの男はまさに流星の如く駆け抜けて一生を閉じた。作者が言う如くこれは青春の書かもしれない。長く読み続けられる書だ。

そして、この作品をきっかけにその後30年に渡る塩野七生の創作とのつきあいがはじまった。恐らく同じように愛読する人間も多いのではないだろうか?
『わが友マキアヴェッり〜フィレンツエ存亡』(新潮社)
『君主論』という世界的名著は誰でも知っているが、一体どれほどの人が実際に読んだことがあるのだろうか?かくいう自分も若い時に読みかけて挫折した記憶がある。名著だから読まなければという義務感だけで、内的必然性があった訳ではないから、当然とも言える。

だが稀代の政治思想の著『君主論』は「マキアヴェリズム」という言葉を後世に残したほどの強いインパクトを与え、目的のためなら手段を選ばないやり方と理解されているため、危険な書としてローマ法王から禁書に指定された。だから、マキアヴェッリはあまりいい印象は持たれていない。

作者は、この書でマキアヴェッリの生涯を三つの時期に分けて、何を見て、何をして、何を書いたのか?を大いなる共感をもって詳細に描き、またそれを通じて彼の祖国花の都フィレンツェは何故亡んだのかをも重ね合わせている。

第一の時期「何を見たか?」は、マキアヴェッリが青春時代に見たであろうコジモやロレンツォを中心としたメディチ家の僭主制支配によるフィレンツェの華やかな興隆と没落、サヴァナローラの跋扈などルネサンス一の繁栄を見せた都市国家の歴史である。

第二の時期「何をしたか?」は、ノンキャリ官僚に採用されたマキアヴェッリが、水を得た魚のごとく政治、外交、軍事まで何でも仕事を抱え込んで活躍し、ついには大統領補佐官として、国の枢機にまで関わる。また頻繁に国外の派遣され(ただし大使ではない)、ローマ法王、フランス国王、そしてあのチェーザレ・ボルジアとの困難な交渉までこなす。

第三の時期「何を書いたか?」は、メディチ家の復帰とともにお払い箱になり、失意のうちにフィレンツ郊外の山荘に逼塞するが、友人との往復書簡に啓示を受けて、『君主論』や『政略論』の政治思想の書や歴史書などを書くことに没頭するようになる。もちろん復職の望みは捨てず友人の伝手をたどって運動を続けるが、結局その死まで叶わなかった。ある意味では彼の政治思想や歴史観などは、時代を超越した先見性があったがゆえに、同時代人の十分な理解を得られなかったことに起因すると思われる。歴史の皮肉であろう。例えば、当時軍隊は傭兵が常識だが、彼は自前の軍隊の創設まで発想し、実現にまでこぎつけている。このあたりが、『君主論』で理想とした君主がロレンツォ・メディチではなく、チェーザレ・ボルジアであった理由であろう。立場から言えば対立しながらも、マキアヴェッリはチェーザレ・ボルジアと政治思想を共有したのである。

しかし、この書は政治思想家としての固いマキアヴェッリではなく、どこにでもいそうな人懐っこい人間味溢れる姿を原資料などを通じて克明に描き出している。時にはまったく知られざるエピソードも挿入して、その愉快な人間像には思わずニヤリとさせられることもある。しかも、彼は現代に残る喜劇まで書く。本人は自らを「歴史家」、「喜劇作家」、「悲劇作家」と称したと言う。

そして、本書を読めば、人間性を冷徹に見極める透徹した視点、平明で理知的な文章など、作者塩野七生の思想や歴史観に対してマキアヴェッリがいかに大きな影響を与えているかが手に取るように分かる。まさに「わが友」の標題通りで、塩野作品の魅力・秘密を知るのに格好の書であろう。

彼の死と軌を一にするように、彼の思想を活かせなかった都市国家フィレンツェは消滅して、同時にイタリアルネサンスも終焉を迎えたのである。
『ハンニバル戦記−ローマ人の物語U』(新潮社)
1992年から毎年1巻ずつ全15巻の予定で書き下ろされる作者畢生の連作の第U巻目にあたる。日本語では物語だが、ラテン語では「ローマ人の諸々の所行」という意味深長な標題を持つ、人間を通して描くローマ帝国の興隆から没落までの歴史。本来なら刊行順にこの読書手帖を書きたいところだが、そんなことをしたらいつになったら書けるものやら分からないので、一番面白く書きやすいものから、書いて行く。

歴史はプロセスが大事という作者の言葉通り、標準的な日本の高校の世界史の教科書ではたった5行で片付けられるポエニ戦役−紀元前3世紀に二度に渡り通算約40年間ローマとフェニキア人の国カルタゴと間で繰り広げられた壮絶な戦いを、約400ページのとてつもなく面白い戦記に仕上げている。

当時従軍した者の手になる記録によっているとはいえ、後世の浩瀚な研究書にも目を通したうえでの物語は、これが紀元前とは信じられないような生き生きとした歴史になっていて、あたかも現代史を読むような錯覚さえ覚える。とりわけ第一次ポエニ戦役に敗れたたことから、ローマ連合討伐を悲願として立ち上がったカルタゴの若き天才指揮官ハンニバルが、スペインから大軍と象を連れて長躯アルプス越えをして、イタリア半島へ攻め込み、カンネの会戦など数次の戦いでローマ連合軍を散々に打ち破るまでが一気に読ませて、手に汗握る面白さである。

だが、負け一方であったローマ連合も、ハンニバルの執拗な攻めにも屈せず、鉄壁の連合体制を崩さない。そして、指揮官に恵まれなかったローマ連合に彗星のように現われたスピキオ・アフリカヌスが、逆に相手の懐に攻め入り、スペイン、そしてシチリアからカルタゴ本国へと戦場を移し、ついにハンニバルとの直接対決であるザマの会戦に勝利して、戦役を終結させる。

カルタゴを降したローマが、カルタゴそのものを完全に滅ぼして、地中海の覇者になるのはそれから1世紀もかからなかった。ローマ連合の壊滅を狙ったハンニバルの戦いが、結果としてカルタゴの滅亡とローマの繁栄につながったこと、また彼の天才的な戦術家としての後継者が自国には育たず、戦争相手のスキピオ・アフリカヌスであったことは歴史の皮肉と言える。だがそのスキピオでさえローマ本国では政治的に葬られてしまうのは、皮肉を通り越して歴史の非情さである。


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