宮城谷昌光


『奇貨居くべし』(文芸春秋)
「奇貨居(きかお)くべし」とは、得難い機会だからうまくこれを利用しなければならない、という意味のことわざで、司馬遷の『史記』で呂不韋が後の秦始皇帝の父を援助した故事から来ている、と広辞苑にある。

呂不韋、一商人から秦の宰相にまで登りつめた政治家であるとともに、『呂氏春秋』という百科辞典まで編纂した文化人でもあったが、秦始皇帝の父ではないか?とも言われていて、何となく胡散臭い印象をかねてから持っていた。ところがこの本を読んで大きな認識違いをしていたことに気が付かされた。

ここで作者が描く主人公の何と爽やかで、魅力的なことか!韓の賈人(商人)の子が、商売の修業の旅に出たことから、波乱万丈の遍歴が始まる。戦国期の各国の争いの渦に否応無しに巻き込まれて、一時は虜囚の身にまで落ちる。だが、その間も荀子の教えを学びつつ成長して行く。そして、趙の藺相如、楚の春申君、斉の孟嘗君など戦国の英傑たちの知遇を受けるに至り、また多くの食客や家来を持つ。農業も学ながら、やがて大商人として財を成す。

ある時、秦の公子(始皇帝の父子楚)に会ったことから、「奇貨居くべし」と大金を注込み、秦の嫡子にまでする。彼が王に立ったことから、宰相として政治の世界に入ってゆく。作者の理想像がこめられているとはいえ、呂不韋の政治の基本姿勢は、言ってみれば後の漢を先取りした統一中国であり、王がいても民衆のための政治を指向した一種の立憲君主制であろう。これが貫かれれば、秦は統一後も長続きしたであろうが、不運なことに子楚が即位後短命に終り、性暴虐な政−始皇帝が立った。呂不韋は失脚し、毒をあおぐ。

『史記』や『呂氏春秋』などの原資料によりながらも、多くの部分は作者の創作であろう。しかし、そのスケールの大きな雄渾な物語は、読者を惹き付けて止まない面白さと爽快さに満ちた長編である。教養小説の系譜に連なると言ってもいいであろう。『重耳』『孟嘗君』とともに作者の傑作の一つである。


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