徒然なる日条(平成17年2月〜3月分)

2005年02月01日
今日から二月に入ったが、寒さのためかあまり変わり映えしない。仕事もまったく単調であるし…。

気分転換にたまにはテレビドラマも見る。家人と見るものが一致した場合だけだが(^_^;。フジテレビ系列の『救命病棟24時』は、その数少ない番組である。第1作目から江口洋介の医師が、かっこよ過ぎて、実際にはこんな医師がいるはずがないと思いながらも、その迫真力には引き込まれて見てしまった。救命病棟の医師とは大変な仕事だと感服した。またその時は研修医役だった松嶋菜々子は好きな女優の一人だから、なおさら楽しみに見ていた。

第2作目を経て、久し振りに復活した今回の第3作目は、松嶋の復帰第1作目でもある。とりわけ今回は設定が東京に大地震発生という一種のシミレーションドラマだから、その危険を感じる今日このごろとしては、余計他人事とは思えない展開である。地震が起きた時は、みな被災者だというセリフには同感した。
2005年02月03日
今日は節分。形ばかりの豆まきでは「福は内、鬼は外」とはいかなかったかもしれない。

昨夜はやたらと眠くて早めに寝てしまった。朝起きてもまだ眠気が取れない。くしゃみも出るうえ、眼にもかゆみがあるから、そろそろ花粉症の初期症状のようだ。今週は二週間振りの土曜休みだから、医者で薬をもらって早めに手を打たねば。何しろ今年は昨年の10〜30倍の花粉が飛ぶようだから。

最近のクラシック音楽の指揮者も、朝比奈隆が亡くなってからは、80歳を越えた巨匠がいなくなったと思ったら、P・ブーレーズが今年80歳になるという。映像で見てもとてもそうは思えない若々しさであるから信じられないが、1925年生まれだから間違いない(J・ヨッフムやK・ベームなどは随分年とって見えたが)。そこで今年はブーレーズ2005として、記念盤がいろいろリリースされるようだ。

第1弾の一つとして、これが出た。巨匠得意中の得意の作曲家バルトークのピアノ協奏曲が3曲まとまって収録されているというお得なもの。しかも、ソリストとオーケストラが全部異なる超豪華盤。今が旬のピアニストがそれぞれ個性を発揮して白熱の演奏を繰り広げているから、今後これをしのぐ盤は当分出ないと思わせる言わば決定盤であろう。カタログを見ると、今後G・ノーマンとの『青ひげ公の城』も予定があるようだから、期待できる。
2005年02月04日
節分が終わって立春を迎えたためでもなかろうが、今日は寒さも一段落して、外歩きも楽だった。もうあちらこちらから梅の便りが聞こえて来る。

今の住まいから手軽に行くことが出来る梅の名所と言えば、やはり曽我梅林吉野梅郷であろうか?曽我梅林は曽我兄弟でお馴染みの場所で、由緒あるお寺などあり、梅の鑑賞のみでなく、文学・歴史散歩も楽しめる。2月から梅祭りを開催しているはずである。

また吉野梅郷はその咲き誇る梅の見事さは壮観である。近くに吉川英治記念館など、これまた散策する場所に事欠かない。さて今年はどちらかに是非出かけたいものである。
2005年02月05日
今、丸谷才一『後鳥羽院 第二版』(筑摩書房)を図書館から借り出して読んでいる。昭和48年に刊行された初版は、日本詩人選というシリーズのうちの一冊だったと思うが、出版された時に早速購入して読んだ記憶がある。正直和歌にはあまり鑑賞力がなかったから、内容を十分理解できたかはかなりあやしいものであったが、あの藤原定家を上回る最高の天皇歌人らしいくらいのことはおぼろげながら分かった。

しかし、その後三十年以上経って増補された本書を、その後の著者の日本文学史に対する卓抜な評論(例えば『日本文学史早わかり』など)のなかに位置づけると、後鳥羽院は日本文学において、王朝文学の頂点に立つ文化人であるとともに、日本的モダニズムの開祖であるということになる。

これは本書からの受売りだが、我々が今日本人の生活で普通と思っていることが、大体十五世紀以降からであって、それ以前はまったく外国のようだと思えるほど異なっていたらしい。食べ物で言えば、一日三食、味噌、醤油、砂糖、住居で言えば天井や部屋に畳を敷き詰めるなど、この頃から始まったようである。お茶や生花も同じ頃。それは日本社会が母系家族制から父系家族制に変わったことに最大の理由があり、文学史的には勅撰和歌集が終焉したことが重要とのこと。それまでは、天皇が率先して恋歌を歌い(ちなみに、日本は中国の物真似をしながら、何故か中国が恋愛蔑視に対して、恋物語、恋歌中心だった)、文化の洗練度を極めた。軍記物語や能や歌舞伎なども和歌に大きく影響を受けているという議論は、十分説得力がある。

しかし、十五世紀以降和歌は文学の支配的形式ではなくなり、日本文化も変容して行く。もちろん天皇が和歌を歌うことは伝統として続いたが、恋歌はほんの僅かの明治天皇を歌を最後として歌われなくなったことは、明治以降の近代化の流れの中で暗示的であろう。

ところで、これはどうでもいいことなのだろうが、奥付を見ると、表題を「ごとばのいん」とふりがなをうっている。この読みははじめて見た!
2005年02月06日
ネット上、ブログが大人気である。難しいことは分からなくても、個人で簡単に日記を中心としたウェッブを持てるからであろう。リンク先でもかなりブログ日記をはじめた方が多い。コメントやトラックバックで多方面との交流が手軽に出来るのも人気の秘密のようだ。

契約しているプロバイダーでも、ブログがあるからこのサイトでもその気になればすぐにでも出来るのだろうが、生来のおくてと怠惰。まだよく調べてもいないので、日記のブログ化はまだまったく手付かず。

『電車男』の大ヒットで二匹目のドジョウを狙ったものか、ブログで評判の高いこれが出版された。書店での立ち読みと本物のブログ日記を読んでみての感想は、たしかに面白い!かなり誇張と戯画化がされているような気はするが、夫婦間の機微を巧みについているから、とくに哀れなカズマに自分を重ね合わせて、頷く旦那諸氏は多いと思う。だが、いつから日本の亭主はこんなに弱くなったんだろうか?それとも嫁が強すぎる?
2005年02月07日
今日日中、ターミナル駅近くで火事を見た。外へ出たら、煙がただよい、こげた匂いがする。人だかりがする方に行ってみたら、ビルの谷間に埋もれるようにひっそりと建っている古い店屋が燃えていて、消防車がはしごから盛んに消火活動の真っ最中!

ほぼ一時間後、帰り道にまた通ってみたら、もう火は鎮火していたが、数人の消防士がすっかり焼けた二階を調べていたようだ。あのような駅の近くで、しかもたしか以前に通った時この店はもう閉鎖されていたから、無人のはず。一体火事の原因は何なのだろうか?
2005年02月08日
今日はフジテレビ系列で、『鬼平犯科帳』のスペシャル番組が夜7時から放送される。待望の中村吉右衛門の鬼平が、四年振りの復活である。彼の鬼平は今さら言うまでもなく、原作者の池波正太郎のイメージそのままの、強さと情を兼ね備えた粋な男。初代の鬼平を父である先代幸四郎が演じて、はまり役だったから、彼も最初この役を依頼されたときは一旦断ったと聞く。しかし、大好評で、今ではその父をも抜く息の長いシリーズとして、吉右衛門の代表作ともなった。多岐川裕美や三浦浩一、梶芽衣子など好助演陣にも恵まれて、この『鬼平犯科帳』は類稀な良質の時代劇になっている。

今回は熱いリクエストに応えての復活だが、もう映像化する原作がほとんど無いから、リメイク版らしい。それでもまたあの鬼平がテレビで観られるとは、何とも嬉しいことである。しかし、とまた前に書いたことの繰り返しだが、時代劇ファンに高齢者が多いことを配慮してか、最近夜7時から放送が多過ぎる。せめて8時代に放送してくれたら、と願う。まぁ、ビデオに録って見れば済むことなのだが、どうも録画したものは後でと思うと、なかなか見られない!
2005年02月09日
昨八日で、アクセスカウンターが二万台を越えた。一昨年の五月にこのサイトを立ち上げてから、一万を越えるのに、一年一ヶ月かかったのに対して、今回は八ヶ月で一万を突破したことになる。予想もしなかったことで、正直驚いている。ただ、今回も残念ながら、キリ番をふんだ方は分からない。

このようなサイトでも訪れて下さる方が増えたことは、大変有難いことである。最近日記を除いては、他のコンテンツの更新がままならないが、今後も無理の無い程度に楽しみながら、更新を続けてゆく励みになる。あらためまして、このサイトを引き続きどうぞよろしくお願いいたしますm(__)m。
2005年02月10日
通勤に横浜駅を利用していると、ブルートレインに遭遇することがある。下関行きの「あさかぜ」や熊本・長崎行きの「はやぶさ・さくら」である。もう旧聞に属するかもしれないが、この三月のJR各社のダイヤ改定で、乗客減を理由に「あさかぜ」と「さくら」が廃止される。歴史あるこれらの列車がなくなることは大変淋しい。料金的にも、時間的にも飛行機や深夜バスに対抗できなくなったことから、止むを得ないであろうが、あのブルートレイン独特の、長距離旅行に出ているんだという旅情は他のものに代え難い。狭い寝台に寝ていると、走行中の振動と音は結構うるさいけれども、それでも心地よい眠りに誘われた。

三十数年前会社の転勤で長崎に一年いたことがあった。新幹線がまだ大阪までしか開通していなかったから、大阪・長崎間はブルートレインの「あかつき」を頻繁に利用した。年末に父親が急病で倒れてからは、月に何回も東京と往復することが続いた。まだ土曜日が休みではなかったから、休暇を取って金曜日の夜10時に長崎を発ち、12時間かけて大阪に着き、それから新幹線を使って東京へ帰る。戻りは日曜日の午後3時ごろ東京を出て、7時の「あかつき」に乗り、翌朝7時に長崎着。一旦アパートへ戻ってから、会社に出た。今考えると、若かったから出来たことでもあるが、ブルートレインのお蔭で随分助かったと思う。
2005年02月12日
新聞の特集を見て気が付いたが、今日は菜の花忌−司馬遼太の命日。亡くなってからもう九年、そんなに経ったのかという印象がある。晩年、『韃靼疾風録』を最後に創作はなくなったが、エッセーは活発に発表されていたので、急逝には驚いた記憶が鮮明に残っている。

いまだにその作品の多くは多数の読者に愛されてロングセラーを続けているようである。1970年代からその作品をほぼリアルタイムに読めたことは、今考えれば大変幸せなことと言えよう。代表作の『竜馬が行く』『坂の上の雲』は言うに及ばず、室町・戦国期から幕末維新まで動乱期の主人公はどれも忘れ難いが、とりわけ『花神』の大村益次郎、『峠』の河井継之助などその作品ではじめて全体像を知っただけに強いイメージを植えつけられた。
2005年02月13日
平成の大合併ではじめて、県を跨いだ越境合併が実現した。生活圏の点を考慮した地元住民の意思によるものだから、部外者はとやかく言えないが、島崎藤村の生まれ故郷の馬籠もこの合併によって長野県から岐阜県に変わる。『夜明け前』の有名な冒頭「木曽路はすべて山の中である」の木曽路は、自分の頭の中では信州(長野県)と分かち難く結び付いていたので、切り替えるまでかなり時間がかかりそうである。
2005年02月14日
先日いきなり電気のブレーカーが落ちて、ストーブはビービー鳴るは、照明が消えるは、で一体何が起きたか最初は分からなかった。調べてみたら、電子レンジが故障した際、30アンペアでもブレーカーが落ちるほど大容量の電流が流れたためらしい。もちろん電気は早速元へ戻ったが、電子レンジの故障はどうも簡単に修理も出来そうに無い。何と14年も使っていたから、部品も無いらしいからだ。

電子レンジは日常ご飯や飲み物の温めや料理に頻繁に使っていたから、すぐいろいろ不便が出てきた。家人が電器の量販店に赴いて、パンフレットを入手して、どれにするか比較検討を始めたが、徹底的に調べて自分が納得した商品を見付けないと、買わない人だから、なかなか時間がかかる。ようやく候補商品を絞って一緒に一昨日店に出向いた。その時に実際に商品を見てみればまた変わるよ、とアドバイスしたが、やはり店員の説明を聞いたら、自分の思っていた商品と違う商品を薦められて、不満そうだった。つまり、それだけ最近の商品は進歩していて、多機能になっているのだ。しかし、値段は驚くほどかつ廉価!最終的には私がこれにしたら、という一言で決まったが、夜またあの商品に決めてよかったのか?と悩んでいる。疑問点をよく聞いたうえで、昨日再度お店に行って再確認し、ようやく決着。やれやれ、疲れた。

それにしても、これだけ検討して購入し、以降良く手入れして使うためか、家人の使う電化製品は概して長持ちする。冷蔵庫しかり、洗濯機しかりである。ところが自分の買うオーディオ・ビデオ関係はどうも商品に当たらないというか、よく故障したり、長く持たない。やはり、ぱっと勘が閃いた商品を衝動買いするからいけないのだろうか?そう思うと最近あまり使っていない機械がいつ壊れるか心配になって来た(^^ゞ。
2005年02月16日
昨日、日中からどうも体が重く、だるい。疲れからくる風邪のようだ。それで、夜はPCも開けずに、早寝した。ところが未明の地震で、大きく揺れて驚く。しかし、だるくて起きられない。とくに物が落ちたり、倒れたりした様子も無いので、そのまままた寝てしまたら、いつもの目覚ましにも起きられず、結局会社を休む羽目に…。

ところが、家人が大変だから起きろ、と言う。通路側に面した部屋のガラスの一部に亀裂が入っているから、悪戯されたのではないか?それとも地震身のせい?と心配している。調子悪いからと寝てもいられず、起きてよく見ると、明らかに部屋の内部のガラス側に一本の線が入っている。どうみてもこれは地震が原因としか考えられない。家人に管理事務所に連絡させたが、今日は休みとのことで今度はURの方に電話して、事情を説明した。とにかく近日中に見に行くが、修理代は自己負担である旨話していたらしい。それはおかしいのでは?と話合っているところへ、ピーンポーンと玄関のベルが鳴り、家人が出ると、自治会長がこのガラスはどうしましたか?と聞く。えっ?もう連絡が行ったんですか?と聞き返すと、実は他の住民からも同じようなガラスの破損があったという連絡を受けたので、団地内の各階を見て回っているのだ、と説明があった。何軒も同様な亀裂があるらしい。これで我が家だけでないことが分かり、ほっと安心して、業者が見に来てくれるのを待つことにしたら、どっと疲れが出て、一日寝込む。

夕刊を見たら、この地域は震度4だったらしい。それにしても、地震でガラスに亀裂が入るとは、老朽化の証拠であろうが、震度5以上の揺れが来たらどうなるのだろう?あらためて地震の怖さを思い、地震対策が必要だと痛感した。
2005年02月17日
いつも楽しみに定期的に訪問しているこちらのサイトの掲示板の一つが一時的に閉鎖された。アバドファンにとっては大変残念なことだが、最近散見される、読む者を不快にさせるような心無い書き込みが増えた以上、管理人さんの判断は止むを得ない、と思う。

ファンサイトであるからには、書き込みにはある節度とマナーが必要だと思うが、そのようなことは弁えず、ただ勝手に書きたいことだけを書き散らし、自分は憂さを晴らしているのだろう。しかし、読む者がどう感じようがかまわないその態度は、人間性を疑ってしまう。匿名で書き込みできるコミュニケーション手段の悪しき側面の一つであろう。

今回のことでもっとも心を傷めたのは、管理人さんであろう。及ばずながら声援するとともに、出来る限り早い機会の掲示板の再開を願って止まない。
2005年02月19日
昨日昼頃から猛烈に喉が痛くなり、腰痛や節々の痛みも出てきた。来たか?と思いつつ、夜帰宅してから、体温計を測ると38.5℃もある!一時は39℃まで上がり、寝苦しい一夜があけて、かかりつけの医者に行くと大混雑。医者の診断は、やはりインフルエンザ!今日の患者はほとんどインフルエンザらしい。それは薬を飲んでおとなしく休むほかはない、と言われた。

しかし、医者から戻って来ると、先日購入した電子レンジが届いていて、その据付作業があった。その後はただ寝るのみ。
2005年02月24日
四日間お休みして、ようやくこの日記を再開。と言ってもまだ仮再開に近く、リハビリ中といった感じである。ご心配をおかけしましたm(__)m。

日曜日には熱も最高で40℃近くまであがり、一日中下がらなかった。月曜日に38℃台、火曜日にようやく37℃台にまで下がり、平熱近くなった。結局水曜日まで会社を休んでしまった。感染が怖いから、医者のOKが出てようやく今日出勤した。もちろん、マスク付きである。しかし、案の定、家人は火曜日から発熱して、まだ治っていない。

こんなに高い熱を出した記憶は、ここ20年以上無い。だから、まったく熱に弱かったためか、それとも年齢のためか、回復力が落ちている。当分体力を取り戻すことに専念しなければいけない。

それにしても今年は流行らないと言われたインフルエンザが急に蔓延。皆さま、感染しないよう、体調維持にはくれぐれも注意して下さい。またうがいと手洗いは忘れずに。
2005年02月25日
こちらが会社を休んでいる間にも、世の中はニッポン放送をめぐるライブドアとフジテレビの攻防がマスコミを賑わせている。新興企業の行動に眉をひそめる向きもあるが、所詮資本の論理で動いている以上、このような投資行動は止むを得ないと思うし、ある意味では今までどちらが親会社か分からないようなねじれた資本関係の隙を衝かれた、と言える。双方とも驚くようなテクニックを駆使して、激しくつばぜり合いをしている感じであり、こう言っては悪いが高みの見物をしてる限りでは、どう決着するか興味津々である。

しかし、この事件は、今は業界を離れているものの、永年その水に浸かった人間としては対岸の火事視するには、あまりにも強烈である。二週間の業務停止とは会社の機能がまったく停止するに等しい。同業への影響も心配である。
2005年02月27日
昨日は肌寒い一日だったうえ、土曜出勤日だったから、インフルエンザの後遺症からなかなか体調がすっきりと元に戻らない。家人もまだ寝ていることが多いから、今日もあまり家でもゆっくりと休めなかった。

そんな中でも忙中閑あり、歌舞伎のDVDを見たり、大河ドラマ『義経』を見たりする。この『義経』、久し振りに大河ドラマの王道に帰り、豪華な出演者で華麗な王朝物語を描いている。宮尾登美子の原作『宮尾本平家物語』を読んだ者には、何故義経を主役にしたかは理解し難い点もあるが、国民的な人気としてはやはり判官びいきは止むを得ないか?

あまり固いことを言わなければ、今までの回でも十分源氏と平家の物語の世界にひたることが出来る。とても民放では真似できないような贅沢な役者をベテランから若手まで揃えているから、これで面白くなかったら、おかしいくらいだ。とくに渡哲也の清盛や平幹二郎の後白河法皇にさすがと言える味がある。しかし今日の「決別」で当分出演は無いであろう常盤御前役の稲森いずみがこのドラマの前半の核として随分光っていたように思う。牛若はじめ源氏の忘れ形見を何とか生きながらえさそうと、敵の清盛にまで愛されて能子を生み、さらには一條卿に嫁ぐという辛酸を舐める。その難役を稲森いずみはとてもはかなげに、またある時は凛とした力強さで演じていて、共感を誘った。義経が奥州に発つ別れに見せた涙には、別れの悲しみだけではなく、自分の苦労が理解され報われるような若者に義経が育ってくれた喜びもあり、ほろっとさせた。
2005年02月28日
昨日の夜NHK教育テレビで放送された「劇場への招待」−坂東玉三郎の『京鹿子娘道成寺』と片岡仁左衛門の『梶原平三誉石切』(石切梶原)は、今日帰宅後ようやくDVD録画で観た。どちらも期待以上の素晴らしさ!とりわけ道成寺は、珍しく謡いが入り、乱拍子も長く、前半はとても緊張感溢れるものだった。一転して次々と引き抜きや肌脱ぎで衣裳を変えながら、町娘のいろいろな姿を可憐に踊り抜く。しかし常に鐘への恨みは忘れないで、きっとした表情を向けた時の変貌。最後の鐘入りも大きく見得が決まって幕。仁左衛門の梶原も、今吉右衛門と並んでこの役を当り役としていることを納得させる爽やかさであった。しかし、亡くなった坂東吉弥の元気な姿を映像で観られるのは、貴重とは言いながら、すぐれた脇役だったから淋しいものがある。

最近生の舞台に多く接してきて思うのだが、実際の舞台で味わえるものと映像とでは、同じようでいてやはり違うものだと感じる。役者は多くのスタッフと協力して、1ヶ月の舞台を徐々に作り上げて行って、千穐楽まで持って行く。その間毎日の舞台は一つとして同じではなく、進化している。役者は楽に向って練り上げているのである。だから、月初めに観た場合と千穐楽に観た場合とでは異なる印象を持つこともある。ここに楽日観劇の醍醐味がある。

昨日のようなテレビ放送の録画やある方のご好意で時々観ることが出来る歌舞伎チャンネルの最近の舞台の録画では、収録日は出ていない。恐らく実際の歌舞伎座でカメラが入っているのを見た経験からは、中日あたりが多いようである。普段客席からでは見られないようなカメラアングルやアップの表情などは映像でしか味わえないものであるし、何度も繰り返し観ることが出来るメリットも大きい。記録としても貴重だ。しかし、生の舞台の感動とはまた異なるものと思う。まず臨場感が違う。もちろん、劇場へ足を運べない多くの人に歌舞伎を理解してもらうには昨日の放送などは格好のものだが、放送で興味を覚えたり、面白そうだなと思ったら、是非一度実際の歌舞伎の舞台に観に出かけて欲しい。もっと素晴らしい感動が待っていると思う。
2005年03月01日
三月に入ったというのに、今日は昨日とうって変わった真冬並みの寒さに逆戻り。週末には太平洋岸でもまた降雪の恐れもあるとか。春はまだ遠いのだろうか?

今の出向先での勤務も、いよいよこの三月一杯で終了となる。厳しいが、ある意味ではほっとしているところもある。四月以降は出向という名の下に、自分で働く先を見付けなければならない。言わば態のいい社内失業(苦笑)。だが、捨てる神あれば、拾う神ありと呑気に構えている。自分に甘過ぎか?

さて、七之助の事件、起訴猶予処分に決定。これで、ペンディングになっていた四月以降の勘三郎襲名興行への出演問題が一気に浮上してきた。しかし、以前にも触れたように、まだ若く、将来のある役者。起訴猶予だからと言って、安易ななし崩し的な出演は避けた方がいいと思う。会社側も本人の将来を慎重に検討したうえで、もし出演させる場合でも正式な説明を行うことを望みたい。それでなくとも今回の問題では、梨園は身内に甘いとあらぬことをマスコミに書かれているのだから。

なお、中村屋の公式HPの掲示板では、新勘三郎(勘九郎)本人のコメントの書き込みが読める。
2005年03月02日
いろいろ話題になった十八代目中村勘三郎の襲名興行も、いよいよ明日歌舞伎座の初日が開く。三ヶ月の連続でどのような舞台を見せてくれるか、期待大である(観劇はまず6日の昼の部から)。テレビの特集番組も多く、当分お茶の間にも膨大な映像が流れてくるであろう。

出版でも『さらば勘九郎』(幻冬舎)が緊急発売された。単なる便乗企画ではなく、ご本人への取材を重ねたうえでの書下ろしの力作のようである。七之助事件についても、最後の方でかなり詳しく触れられている。ここで新勘三郎が七之助に言った親としての責任の発言−「親なんだから泥をかぶっても構わない、ただ、一度だけだ」は潔いし、襲名に当たっての試練と捉えているのは、さすがと思える。襲名興行の成功を祈りたい。
2005年03月03日
先般の伊福部昭のCDを聴いてから、今まで日本のクラシック音楽に無知だったことを反省して、NAXOSの「日本作曲家選輯」に俄然興味が湧いてきた。芥川也寸志や山田耕作のような著名な作曲家のみならず、大澤壽人のような埋もれていた人も発掘している意欲的なシリーズである。

今はまって聴いているのが、その言わば入門編にあたる『日本管弦楽名作集』。伊福部昭ツフ「日本狂詩曲」や芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」と言った出世作は、ロシア的な荒々しさと東洋的な旋律が交じり合った彼ら独自の音楽を既に作り上げていて、魅力的だ。

しかし、近衛秀麿(編)「越天楽」、外山雄三「管弦楽のためのラプソディ」や小山清茂「管弦楽のための木挽歌」は、日本の伝統的な雅楽や民謡を主題にしていて、親しみ易いと同時に郷愁のようなものを感じる。もしかしたら、子守唄だったか?それともやはり日本人の血のなせるわざなのだろうか?
2005年03月04日
本当に今日の関東一円は、春の大雪に襲われた。お蔭で午前中は仕事にならず。その分普段と違って、室内にいることも多くかえって楽だった。

昨日初日だった勘三郎襲名興行は、まずは上々の華やかな滑り出しのようで、各紙で写真入りで口上の様子が報道された。この写真は代表取材のようなので、この写真・記事も追加しておく。本人も口上に連なった役者も感極まった人も多いようだ。

今晩はこれからフジテレビ系列で、『涙の襲名完全密着−勘九郎から勘三郎へ』が21時〜22時52分まで放送される。もちろんDVD録画(笑)。

なお、もうご承知の方も多いであろうが、BS2で5日(土)、12日(土)の二回にわたって、『待ってました!中村屋!十八代目中村勘三郎ここに誕生』を放送するので、念のため書いておく。

・5日(土)13時30分〜17時(予定)
 『勘九郎の足跡をたどる その壱』 過去の舞台を中心に勘九郎の45年間の歩みをたどるドキュメンタリーの一回目

・12日(土)13時30分〜16時(予定)
 『勘九郎の足跡をたどる その弐』と『口上』、『一條大蔵譚』の舞台生中継がある模様。
2005年03月06日
幸い予報とは異なって降雪はなかったが、真冬並みの寒さにとても歌舞伎座へ観劇に行くとは思えないような重装備で出かける。今日は待ちに待った十八代目中村勘三郎襲名興行の昼の部観劇。入場してみると、何と祇園の舞妓さん方が多数来場していて、桟敷に座って観劇。それでなくとも華やかな襲名の舞台になお一層の花を添えていた。京都でもなかなかこのように多くの舞妓さんを見ることが出来るのは稀だろう。眼福でした(*^_^*)。

襲名の幕開けの舞台は、『猿若江戸の初櫓』。京から出雲の阿国と道化役の猿若が江戸に下ってきて、日本橋に猿若座の櫓をあげることを許されるという舞踊。猿若座の座元である勘三郎家の襲名に相応しい、また華やかなもので、猿若に扮した勘太郎(勘三郎の長男)の切れの良い踊りが心地よかった。

『俊寛−平家女護島』は、またかと思うほどしばしば上演されていていささか食傷気味であり、勘三郎襲名公演にそぐわない気もするが、座組みの点で止むを得ないのかもしれない。幸四郎の俊寛は、事前の予想よりはしごくまっとうに演じていて、この人に時々感じられる時代物としての違和感もなく、その悲劇に素直に共感することが出来た。

『口上』は列座する幹部役者が総勢19名。さすがに大名跡の口上だけあって、圧巻。みな先代勘三郎に可愛がられた思い出が多く、また親戚の縁につながる役者も少なくない。左團次(この人は名前を言うだけでお可笑みがあるが)がもっと遊んで色めいたお話をと言ったのは、舞妓さん方を意識してか?また扇雀が先代勘三郎死去の時に、新勘三郎と一緒の舞台に出ていて動揺したのに、彼は涙一つこぼさず立派に舞台を務めたのをつい昨日のことのように思い出すと話したのは同じ平成中村座などで共演する役者さんの話として印象的だった。他に書いていたらきりが無いが、贔屓の玉三郎が25年前の『野崎村』でお染、勘九郎(新勘三郎)がお光で、勘三郎の久作と共演した時、ご機嫌が悪く、舞台裏で勘九郎をきつく叱っていたので、このままでは舞台が終わらないと、舞台上でそっと叔父さんごめんなさいと何度も謝ったら、急にご機嫌がなおり、無事終えることが出来た、と可愛がってもらい、引き立ててくれた先代の懐かしい思い出として話していたことは聴くものをしみじみとさせた。

『一條大蔵譚』は、ちょうど今放送されている『義経』の登場人物、常盤御前が再嫁した一條大蔵卿長成を主人公にした二幕。別に便乗ではなく、先代勘三郎が得意にしていて、新勘三郎が手取り足取り習ったという思い出のある演目で、真っ先に取り上げたのはよく分かる為所のある役。阿呆と見えていた一條卿が、実は平家全盛の時に源氏に心を寄せていることをさとられないよう、作り阿呆を見せていたというもの。阿呆と正気の演じ分けが見所で、最初の「檜垣」の場の徹底した阿呆振りは見事で、最後に正体を見せた時とは同じ人とは思えない鮮やかさ。新勘三郎の名舞台と言える。玉三郎のお京が科白は少ないが、舞台に出ずっぱりで存在感を示していたのは嬉しい。今までこの役がこんなに大事とは思いもかけなかった。
2005年03月07日
ようやく春めいた日差しとなり、気温も上がった。明日はさらに上がるらしい。しかし、いよいよ本格的な花粉の飛散が始まりそうで、もう今日既に目に痒みが…(>_<)。

最近大津絵に興味が湧いている。絵そのものは無銘性に特徴があり、複数の人間が協力して描いた民衆画である。寛永年間から世俗民衆的な画題で描かれて、幕末頃には大流行したようである。素朴であるが、なかなか味があるとともに、鬼を題材にしたものはユーモラスでもあり、観てていても楽しくなる。藤娘など歌舞伎と共通する点もある。

なお、以前にも書いたかもしれないが、長沢勝俊氏が大津絵を題材として、日本音楽集団にあてて、『大津絵幻想』という名曲を書いている(ライヴノーツ WWCC−7379)。
2005年03月08日
今日はフジテレビのニッポン放送に対するTOBが3分の1を超え、成功した報道一色だった。例によって堀江社長はマスメディアに頻繁に露出して、強気の発言を繰り返していた。プロ野球球団の買収時と同様、古い体質の業界に一石を投じた意欲は良しとすべきだが、やり方がやや強引な印象は拭えない。このようにフジテレビ側と対立したままでは、今後かなり厳しい状況に追い込まれるのではないだろうか?

ここのところこれという新刊が無いせいもあって、新しい本への読書意欲がなかなか湧かない。こういう時は再読とばかり、先日書いた五味川純平『人間の條件』を読み始めたが、どうも主人公の青っぽさが目に付き、進まない。最初にに刊行された昭和30年代との時代背景の違いなのかもしれない。読むこちら側も豊かさに馴れきっていて、戦前の旧満州の悲惨な状況に入っていけないのであろう。そこで急遽司馬遼太郎『項羽と劉邦』に切り替えた。こちらはさすがにゆったりとした史記の世界を通じての司馬講談に浸ることができる。しかし、どちらの書も人間とは何か?を考えていることでは共通している。
2005年03月09日
今朝の朝刊で、この方の死亡記事に接して、大変驚いた。もちろんご本人を直接存じ上げているわけでもないし、お顔すら拝見したことがない。しかし、歌舞伎ファンにとっては、この方の存在はつとに有名だった。歌舞伎を中心とした子役の指導・育成である。

歌舞伎の狂言では、意外に子役が重要である。子役がいなければ狂言が成り立たないものも多い。場合によっては、主役を食ってしまうほどである。最近観て思いつくだけでも、『寺子屋』『重の井』『毛谷村』などがある。もちろん梨園の御曹司が務めることも多いが、ちょうどよい年格好の子供がいないときは、この音羽さんが、都内の劇団から相応しい子役を選び、実際に演技指導して、舞台に立たせるのが常だったと聞いている。御曹司と異なり、歌舞伎の素養がない子役たちに、難しい科白を覚えさせ、演技指導することは並大抵のご苦労ではなかったと思う。言わば歌舞伎を裏から支える重要な役割を担っていたことになる。激務だったのか、まだ亡くなられるような年齢ではない。今後このような役を引き継ぐ方がおられるのか心配でもある。心よりご冥福をお祈りしたい。
2005年03月10日
クラシック音楽の世界では、最近巨匠と呼ばれる指揮者がほとんどいなくなった。とくにドイツ系の指揮者にその傾向が強いのは淋しい。ベーム、カラヤンの時代は今何処?である。K・テンシュテットもこれからという時にガンにかかり、闘病むなしく、1998年72歳で亡くなった。本当に惜しいことだった。

だが、最近生前のライヴ録音が次々にリリースされて、スタジオ録音よりライヴが良かった人だから、ファンとしては嬉しい悲鳴である。マーラー指揮者の印象が強いが、モーツアルト・ベートーベンはじめロシア・東欧音楽も大変素晴らしい。以前聴いたスメタナの『売られた花嫁・序曲』やヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の躍動的な音楽には唖然としたものである。

今回プロフィールのというレーベルから、正規録音として、「バイエンルン放送響ライヴシリーズ」が3点も出た。まだCDショップで視聴しただけだが、どれも魅力的。しかし、やはりプロコフィエフの『交響曲第5番、7番』が一番貴重であるうえ、演奏が凄まじい。これは迷わず買い!
2005年03月11日
旅行のため、更新が遅れたが、これについてはやはり11日付けで書いておかなければいけないであろう。

この日記でも再三書いた七之助の問題は、四月の舞台から復帰と正式に発表された。個人的にはまだ早いと思うが、「口上から皆様の前にその身をさらすことは、七之助に役者としての余程の覚悟がなければ出来る事ではございません。一番、本人の為だと親として考えました」という新勘三郎の言葉にも肯ける部分もあり、また昼の部の主役は降り、夜の部の『口上』と『籠釣瓶』の脇役での出演とのことであるので、今回の決定は静観して四月の舞台を見守りたい。
2005年03月12日
今日から一泊二日で奈良東大寺二月堂のお水取り&寺社拝観、そして高級レストランでの食事の旅である。○○レディスのツアーに便乗のため、ちょっと大人しく旅をする(笑)。

往復ともひかりではあるが、グリーン車だからゆったりとした席でくつろげる。夕食の時間が早いので、11時頃に新幹線内で和食弁当の昼食をとる。出発時間も午前9時台で、近鉄特急に乗り継いだら、13時過ぎにはもう奈良である。新薬師寺と伝香寺と回って奈良ホテルにチェックイン。格式あるホテルだから、このような機会でもないとなかなか泊まれないところだ。菊水楼別館で懐石の夕食後、寒さ対策をしていよいよ東大寺二月堂へ。昼間は雪もちらついた寒い日だから念には念を入れた。

ところが、この日は長さ8m、重さ80kの籠松明が11本も登場する特別な日であり、しかも週末のため、午後6時過ぎに行っても、7時30分開始にもかかわらずもう途中で入場制限で待つ羽目に…。寒さは増すうえ、やはり底冷えがする。体が冷え切らないように動きたくても、大混雑でそれもままならない。ようやく7時30分過ぎから少しずつ牛歩の如く前へ進み、8時10分頃には籠松明が見えるようになった。しかし、人込みに押されて、ゆっくりと見ている間もなく、あっという間に11本の籠松明は回廊を廻って終了!しかし、何とか数本を見ることが出来たから良しとしなければいけないのだろう。とにかく寒さと大混雑には参った!拙い画像だが、雰囲気だけでもと思い、載せる。

        
2005年03月13日
昨夜の疲れからか、やや寝坊。出発時間が遅いから助かる。ホテル自慢の茶粥を食べて、出発。今日は大安寺→帯解寺を廻った。帯解寺は安産の霊場として有名な寺。しかし、予想したより寺域は狭い。住職の説明がなかなか面白く、予定の時間をオーバー。
左が奈良ホテル、右が帯解寺。

 

バスは昼食会場である「Le BENKEI」に向う。ゆったりとした敷地に豪華なレストラン会場での創作フランス料理は、まろやかな味とおいしい自家栽培の野菜が織り成すハーモニーが絶品で、今まで食べたうちで最高のものだった。オーナーシェフの尾川氏自ら説明しながらのもてなしも心地よいものだった。美味に酔いしれているうちに、ここでも予定時間は過ぎてしまったので、急遽変更して近くの駅から京都に戻ったら、雪が降っていた。米原あたりは真っ白だった。

          
2005年03月15日
花粉の大量飛散がはじまって、悲惨なことに…。

ようやく司馬遼太郎『項羽と劉邦』を再読了する。主人公の二人の比較や張良、韓信、陳平などの人物像などがやはり興味深い。しかし、何よりも何故連戦連敗の劉邦が漢帝国を作ることができ、何故項羽が戦には勝ちながら、死に至ったのかは、四捨五入すれば、流民をいかに食べさせることが出来たか?の違いと喝破した作者の慧眼にはあらためて敬服した。この考えが毛沢東まで続き、今の人民中国があるという議論は、この大陸を理解する大きな鍵であろう。
2005年03月17日
三月末で今の会社への出向が終了し、出向元の事務所も移転するので、今日はいろいろ荷物の整理をやったが、今さらながら自分の整理ベタにはあきれた。とにかく溜め込んでばかりいて、ロッカーも荷物の山で溢れかえっているうえ、段ボール箱にもこんなものまで!と思うものが詰まっている。

本やCDは忘れているものも見付けて、得をした気分になったが、書類はよくよく考えたら、過去2年以上も開けて見ていないものばかり。これはいちいち見てから分類したら、時間がかかるばかりだから、えいや〜、と思い切って処分に回した。これで少しも支障はないのだから、整理の要諦は捨てることにあり、は間違いないのだ。だが、どうも性分的にまめでなく、ぎぎぎりならないとやらないのが、玉に瑕。いつもこの位整理していたら、荷物も溜まらず、すっきりするのだが…。
2005年03月18日
以前にも書いたと思うが、今住んでいる市は東京都と言っても、鶴が羽を伸ばしたように長々と神奈川県と境を接しているため、少し歩くとすぐ県境に達する。普段余り関心を持たなければどうということもないのだが、地図とにらめっこしながら歩くと、その面白さはよく分かる。一応境川が境界になっているが、目立たぬような細い道の場合もあり、気が付かないうちに越境していることもしばしばである。

しかも境川は昔暴れ川だったから、蛇行した流れが氾濫によりしばしば変わったようである。このため、現在の県境と川の流れはとは必ずしも一致していない。だから、地図上、川の左岸にありながら東京都、逆に右岸にありながら神奈川県のところがある。橋が近くになければ、行政面や生活面で不便だと思うが、税金面等の問題もあって県境の変更はそうそう簡単には行かないらしい。またもし市同士の話し合いが出来ても、肝心の住民の同意が同意しなければ出来ない。やはり多くの場合、東京都という住居表示が神奈川県に変わるのは抵抗があるようだ。

話が横道にそれかつ前置きが長くなったが、今仕事をしている横浜市で区の境で面白いことを発見した。関内と言われる中心街は中区、横浜駅周辺は西区になるが、同じ町名でありながら、区をまたがっている町があるのだ。JRの駅がある桜木町と花咲町の二つの町は一丁目から三丁目までが中区、四丁目から六丁目までが西区になっている(他に赤門町も二つに分かれている)。恐らく中区から西区が分離したことに原因があるのだろうが、何故同じ区にしなかったのか?住民も混乱しないのだろうか?どうでもいいことだが、不思議でならない。このような例は他にあるのだろうか?
2005年03月20日
昨夜から実家に泊まり、墓参りの支度をして、早めに出発する。だが、さすがにお彼岸の中日、霊園の最寄り駅からのバスも渋滞によるノロノロ運転で、到着までかなり時間がかかった。墓に着いたら着いたで、落葉やら雑草の掃除などに手間取り、何やかやで2時間近くもいた。それでも家の墓をきれいにして、お参りすると心なしか気持ちも晴れやかになるのは、自分が年をとったためなのだろうか?

新宿へ出て遅い昼食をとった後、東銀座に向う。今月の勘三郎襲名夜の部の観劇。さすがに一幕見も行列が出来ていて、大変な混雑振りである。着物姿で観劇のお客さんも普段より多いようである。

最初は『盛綱陣屋−近江源氏先陣館』。大阪冬の陣で真田信幸・幸村兄弟が徳川方と豊臣方に分かれて戦った史実を題材にしている上演時間二時間におよぶ重量級の時代物。信幸をモデルにした佐々木盛綱を勘三郎が演じ、弟の身を案じながら、母、妻、弟の嫁・子と主君の間で苦悩する武将の姿をくっきりと描き出す。歌舞伎でよく出る首実検がここでも大きな比重を占めており、偽首と知りながら、弟の一子小四郎が幼い身ながら父のために切腹した健気さに感じ入り、本物の首と主君北条時政に報告するまでの心の葛藤は、ほとんどいわゆる腹芸でたっぷりと見せていて、共感させる。

富十郎の和田兵衛は赤っ面の敵役ながら、盛綱に心を寄せる。情理とも弁えたこの役を富十郎のいつもながらの爽やかかつ明晰な台詞術で演じ、より一層大きく見えて舞台映えがする。勘三郎と好一対。芝翫の母微妙、魁春の妻早瀬、福助の弟の嫁篝火ともそれぞれしどころのある役を好演しており、不足はない。加えて注進役にきりりとした幸四郎、滑稽味の段四郎と襲名ならではの贅沢な配役で脇を固めていて、見応えがあった。二時間の長丁場もあっという間。

仁左衛門の舞踊『保名』。恋人を亡くして、正気を失った安倍保名が菜の花咲き乱れる野で、形見の小袖を手に、さまよい歩く姿を踊りで見せる。仁左衛門の姿形はさすがに絵になっていて美しいが、当方は未見ながら先月の『二人椀久』と幻想的な描き方や狂乱が同じだから、連続して観た観客には同工異曲との印象を与えていないであろうか?

三島由紀夫作が室町お伽草紙に題材を採って書いた擬古典歌舞伎『鰯賈戀曳網』。先代勘三郎と六世歌右衛門にあてて書かれたこの狂言も、新勘三郎と玉三郎によって引き継がれ、今ではこの二人ならではの狂言となっている。三島作品としては異例ともいえる素朴かつおおどかな楽しさに溢れていて、何回観ても飽きない面白さがある。鰯売猿源氏の勘三郎は、俄か偽大名のドタバタ振り、恋する遊女蛍火に会ってからの見惚れてうっとりとした演技、滑稽な戦物語のパロディー、寝言から本性が露顕しそうになってからの慌てながらのとっさの機転、そして思わぬ蛍火の身の上話から喜ぶさままで、千変万化とも言えるほど演技の連続で観客を爆笑の渦に巻き込む。

もう一方の主役の玉三郎の蛍火は高家・公卿しか相手にしない高級遊女。しかもこの役、実は丹鶴城の姫だから、このような品格ある美しさは今この人しか演じられないものであろう。さらに自分の家来に対しては姫の威厳、そして猿源氏に対しては初々しい女房振りを見せるなど、一つの役で三つの性根をすばやい切り替えで見せるのも大きな見所。

最後は大団円となり、二人が楽しく手を取り合って花道を引っ込むのは襲名の舞台の締めに相応しい。観客も沸きに沸く。幕外では襲名ならではのアドリブのお楽しみもあり、これは楽日観劇後に観劇記として書きたい。
2005年03月21日
昨夜はまだ実家に用事が残っていたので、歌舞伎座からまた実家に帰ったら、妹が来ていた。お彼岸でもあり、実家の母親の様子も見に来てくれたらしい。兄妹でも滅多に同じ日になることはないので、珍しくいろいろな話が出来た。以下は聞いた話の中から芸能ネタ。

妹の長男がテレビドラマの制作会社に勤めて、編集スタッフの補助をしているとは聞いていたが、もうどうやら一人前の仕事を任せられているようで、よく番組の最後に流れる制作スタッフの紹介(と言い方をするのかどうか分からないが)にも、名前が出ているとのこと。最近の番組では、先日終わったテレビ朝日系列の『富豪刑事』。深キョン主演のこの番組も『ごくせん』の陰に隠れていたが、なかなか視聴率も良かったようだ。こちらが見ていなかったので、それはまったく知らなかった。

それでこれからが本題なのだが、こういう番組が終了すると、通常打ち上げのパーティーが行われて、制作スタッフも出演者一堂に会して、大いに盛り上がるようである。そこで彼も一人前に出席して、深キョンに握手したりしてもらって、感激して家に帰って来ても、綺麗だ!綺麗だ!を連発して一躍ファンになってしまったらしい。

それ位なら、まぁ驚かないが、こういうパーティーは出演者が豪華賞品を提供して、抽選大会も趣向としてよく行われるという。深キョンの賞品はハワイ旅行だったとか!さすがに彼はそれは外れたが、大物女優の提供したi Podを引き当てた。大喜びで早速使っているようだが、何とも羨ましいことである。こちらは買いたくても、じっと我慢の子なのに…。
2005年03月22日
福井晴敏『Twelve Y.O』(講談社文庫)を読了した。読書手帖にも取り上げている作家の一人で、今の若手の中でも稀有の力量を持った人。その冒険小説のスケールの大きさは群を抜いている。しかも、今年は『終戦のローレライ』と『亡国のイージス』が映画化されて続けざまに公開される。

この『Twelve Y.O』は江戸川乱歩賞を受賞した作品。しかし、読後の感動は前作の『川の深さは』には劣る気がする。解説の大沢在昌が熱っぽく書いているように、この作品は前作が乱歩賞の受賞を逃した翌年、再度応募されたもので、自衛隊と日本の防衛問題や沖縄の米軍問題を真正面から取り上げていて、スケールはより大きいかもしれない。だが、人物造型の点で、今一つ主人公たちに魅力が薄い。登場人物が小説の規模にしては多すぎて、十分描ききれなかった憾みが残る。やはり『川の深さに』の方が、主人公たちの活躍に泣けるのである。
2005年03月23日
図書館のリクエスト本もなかなか来ないため、読む本が無くなり、いろいろ漁った結果、講談社学術文庫から2点購入した。金達寿『日本の中の朝鮮文化〜相模・武蔵・上野・房総ほか』と網野善彦『中世の非人と遊女』である。

前者は70年代にシリーズとして何点か出ていた日本の中の朝鮮文化遺跡探訪の旅紀行である。今まで読む機会に恵まれず、恥ずかしながらようやく読み始めた次第である。埼玉県に地名として高麗があり、またそこに高麗神社があることは以前一度行ったことがあるから、知っていたので、この関東周辺に高句麗や新羅、百済からの渡来人が住み着いていたことは歴史意識と知識としてはあったつもりである。また神奈川県の秦野や東京の調布、狛江、砧は名前からも同様に渡来人が開いた土地であることも理解していたはずであった。

ところが、前半部分を読んだだけでいかに自分が無知であったかを知った。多くの神社が実は朝鮮を起源としているようであるし、今までの理解を超えて、早くから多くの渡来人が土着していたようである。一番の驚きは大磯にも高麗山があり、高来神社は元は高麗神社であり地名まで残っていることだった。後半の上野、房総、常陸の遺跡はどのような発見があるのであろうか?
2005年03月24日
さすがにゲーノー通がもう書いているので、こちらが口を挟む余地はないが、これはやはり気になる。原ヴァージョンを聞いていないから、比較はできないが、CDショップで視聴した限りでは、佐渡裕の監修によるクラシカル・ヴァージョンはオーケストレーションがなかなか豊かで、壮麗に聞こえる。

佐渡裕は現在パリ・ラムルー管弦楽団の主席指揮者で、その情熱的な指揮振りは師匠のバーンスタインを髣髴とさせる。この組み合わせでは、あゆファンでなくとも、一度は全曲を聴いて見たくなる。是非原ヴァージョンとの比較を教えて欲しいものである。
2005年03月26日
春分の日以降寒の戻りのような寒い日もあったが、今日はようやく春本番のような暖かさになった。と言っても土曜出勤の日はかえって恨めしい。しかも、今の出向先の事務所への出勤は事実上今日が最終だったから、片付けや整理で大忙し。

また周囲は、場所柄大学の卒業式や謝恩会らしき若者で溢れかえっていたから、とても仕事をしている雰囲気ではなかった。まだ来週も駐在場所での仕事は残っているものの、もう解放感があって、気分は既に四月以降に向っている。

明日はいよいよ勘三郎襲名興行千穐楽夜の部観劇。『鰯賣戀曳網』では楽日特有の楽しいことが起こりそうな予感がする。
2005年03月27日
今日は十八代目勘三郎襲名の三月興行の千穐楽。これはしっかりと夜の部の席を押さえてあったから、楽しみにして出かけた。今回も幕間に多くの夢玉メンバーの方々にお会い出来た。

今日は花外だが、花道のすぐ横。役者の演技が手に取るようによく分かって、二回目とは思えないような新鮮な気持ちで観ることが出来た。今日特筆すべきは、まず勘三郎の盛綱。前回に比べて格段に役者振りが大きく感じられた。勘三郎は立役から女形までいわゆる兼ねる役者として幅広い役を演じてきたが、ともすると時代物の役は印象が薄いきらいがあった。しかし、今回の盛綱でその懸念を完全に払拭したと思う。今後も時代物の舞台をいろいろ期待できることは嬉しいことである。

さて、今日一番の期待はもちろん『鰯賣戀曳網』。勘三郎が襲名の最初の月の最後に選んだ狂言だから、カーテンコールはもしやあるのではと期待していた。とくに玉三郎は最近は歌舞伎座でのカーテンコールは無いと聞いていたので、どのような終わり方をするのか?と楽しみしていたわけである。

以下は、夢の女・玉三郎 BBSに書き込んだ投稿とほぼ同じ内容である。

ご報告したいことは幕外の花道の引っ込みからです。既に皆さまが書かれているように、玉三郎さんは勘三郎さんの襲名をお祝いする言葉を述べますが、今日は千穐楽となりましたと付け加えていました。また勘三郎さんは二人が一緒になれたのは夢のようだというセリフに続いて、今日も「そなたの美しさは夢のようだ」と言っていました。これは後半から出たアドリブですね。

さてそのあたりから観客の拍手が盛大になり、お二人が鳥屋に引っ込んでも拍手は鳴り止みません。そして、チャリンと花道の幕が開いて、何と玉三郎さんが勘三郎さんの手を引いて花道に現われたのではないですか!勘三郎さんですからもしかしてカーテンコールはあるかもしれないとかすかに期待はしていたのですが、にこやかに、また嬉しそうに客席へ挨拶をしながら出てこられるお二人を現実に観られるとは思いもかけませんでした!それが歌舞伎座の本興行で現実になったのです。

さらに玉三郎さん自らが誘うようにして勘三郎さんを本舞台に連れて行きます。もう観客は総立ちで、熱い拍手を送り続けます。勘三郎さんは一歩前へ出て深々と御礼の挨拶を繰り返していました。そして黒御簾へもう一回と合図をすると、下座が鳴り出して、もう一度花道への引っ込みが繰り返されて幕となりました。勘三郎さんが「玉三郎さんという大好きな共演者と手をつないで引っ込める、この狂言を三月の最後に選んだ理由でもあります」と語っていたとおりを絵に書いたような千穐楽でした。
2005年03月28日
昨夜の興奮冷めやらぬ一日。強い雨が一日中降っていて、頬に冷たくあたる。

昨夜は終演後歌舞伎座の楽屋口にお仲間の方と行ってみた。いわゆる出待ちである。タカラヅカや他の演劇でもそうだろうが、ファンの方がご贔屓の役者さんの帰りを待つのである。とくに楽日は人が多い。皆さんお目当ては勘三郎さんであろう。出待ちを嫌う役者さんもいるが、勘三郎さんはファンサービス旺盛な人だから、いつもは舞台の疲れも見せずファンのサインの求めに応じてくれるらしい。

ところが昨夜はスタッフらしき人が出てきて、「勘三郎はこれから出演された役者さんのところへ挨拶回りに向うので悪しからず」とわざわざ断りがあった。襲名の大事な舞台が無事千穐楽を迎えたので、早速御礼の挨拶に出向くのであろう。さすがは礼儀を重んじる歌舞伎。襲名とは大変な重労働である。ほっとする間もなくまだまだ襲名興行は続く。勘三郎さんも体に気をつけて、頑張って今月のような素晴らしい舞台をまた見せて欲しい。
2005年03月29日
今日で通算10ヶ月近く駐在していた横浜での仕事を終えた。仕事ではあまり見るべきものが出なかったが、中心街を隅々まで歩いたお蔭で地図がすっかり頭に入ったのは大きな副産物だった。これからはまた遊びで訪れる時には役立つであろう。

またもやお約束(?)で、勘三郎が四月興行で踊る『京鹿子娘道成寺』の成功祈願に紀州の道成寺を訪れた記事はこれ
2005年03月31日
昨日から駆け足で、出向期間中お世話になった主に某社の先輩・同僚の方々のところに挨拶回り。思った以上に話し込んでしまい、予定通り回り切れず、止む無く失礼した方々も多い。今後は時間の融通がききそうだから、合間を見て遅ればせながら伺おうと思う。夕方出向先でご挨拶をして、1年半の勤務がまずはつつがなく終了した。

それにしても桜の開花が遅れていて、春の到来が遅く感じられるが、今日あたりはようやく日差しも春めいて来た。コートも今日から持たず。年寄りにはやややせ我慢のようだが、明日からもう四月だ!いくらなんでももう不要だろう。


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