|
2003年5月のサイト開始以来続けてきたこの日記も、別に立ち上げたブログ日記『六条亭の東屋』がどうやら軌道に乗って、思いもかけないような多くのご訪問者とコメント・トラックバックを頂戴したので、今日7月31日付けで更新を停止して、ブログ日記に移行・一本化します。
その他の内容は観劇記など従来通り、本サイトで更新をしてゆきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします<m(__)m>。 |
|
|
|
|
今日は、公文協東コースの海老蔵襲名披露興行を、鎌倉芸術館大ホールで昼の部を観劇。この暑いなかでも、人気も高く、昼夜とも満員のようである。この鎌倉芸術館ははじめて行ったが、最新の豪華な設備を備えた多目的ホールで、座席もゆったりしていて、じっくりと観劇するにはもってこいであった。
『実盛物語』は、海老蔵がすっかり役を自分のものにしていて、颯爽とした実盛になっていた。仕方話や最後の再会を約しての台詞回しなど、余裕すら感じられた。時代物もこれだけ演じられれば、ますます先が期待できる。市蔵の瀬尾十郎も好演。例の難しい「平馬返し」をぴっちりと決めていた。竹本葵太夫はすっかりと本調子に戻っていて、長丁場の語りをたっぷりと聞かせてくれた。
『口上』は列座が五人であることと「睨み」がないのは、歌舞伎座の襲名口上を観た目には淋しかった。巡業公演であるから止むを得ないだろうが。
團十郎の『お祭』も華やか! |
|
|
|
|
話題を呼んでいる今月の歌舞伎座の『NINAGAWA 十二夜』も、間も無く千穐楽。結局二回の観劇のみで終わりそうであるが、今月主役の菊之助とともに大活躍しているのが麻阿役の市川亀治郎である。
織笛姫の腰元でありながら、叔父で居候の飲んだくれ左大弁洞院鐘道などとつるんで、頭の固い家老の丸尾坊太夫を罠にはめて、散々にからかうという役どころ。主筋と脇筋をつなぎながら、ドタバタ喜劇とも言うべき脇筋(コミック担当?)を出ずっぱりで引っ張っていく重要な役で、テンポよく痛快な切れ味での演技は、満員の観客を沸かせている。この人の傑作と言っていいであろう。今までの歌舞伎の女形の型にはない役で、当方はモーツアルトの歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』の狂言回しの侍女デスピーナをさかんに思い浮かべていた。
亀治郎ご本人も演じ甲斐はあるものの、かなり役作りに苦労したようである。もちろん、猿之助一座にいた時のスーパー歌舞伎も含めての多くの舞台経験が役立っていることは想像にかたくない。これは多くの方が見ているであろうが、ご本人が自身の公式サイトで「麻阿工夫鏡(マライアくふうのうらおもて)」という洒落た題で、その一端を披露しているので、念のため紹介しておく。まだ一回目で続きがあるようだから、次回が待たれる。
市川亀治郎公式サイト
(トップページに楽屋?での麻阿の写真がUPされている。なお、亀たより(実際には新・亀たより2)→目次→7月→27日芝居覚書へ進む)。 |
|
|
|
|
今日はまさに台風一過で、晴れ上がった都心部は気温37度にまで達したようで、猛暑の一日だった。
さて、7日で紹介した、バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)などのチェンバリストとして活躍している鈴木優人氏の下記ブログが今月の『NINAGAWA 十二夜』への出演で、歌舞伎ファンのブログでも熱い注目を浴びている。
eugene's blog
ご本人の出演はもう終わったようだが、過去の記事も追加・修正をされているところもあり、あらためてここでも紹介しておきたい。またまったく違う世界からの新鮮な目で見た歌舞伎の幕内事情も興味は尽きない。
恥ずかしいことに当方も勘違いしていたのだが、幕開きに板付きで登場して演奏されるH・パーセルの曲は、大篠左大臣が語りだす「ああ、この美しい音楽が・・・」の台詞そのものに付けられたもので、その後三人の少年合唱隊に付けたのはクリスマスで歌われる賛美歌第99番「久しく待ちにし」とのこと。
こういう情報をいち早く知りうるのも、やはりブログならではの便利なところであろう。 |
|
|
|
|
今日は台風が関東地方直撃か?とのニュースに、先日の地震の時のように交通が麻痺してはかなわないと、早めに帰宅した。しかし、雨は都心部の方が強くて、最寄り駅に着いたら、かえって雨は小止みになり、そのまま降り止んでしまった。まぁ、台風の被害も少なくて、何よりだった。
珍しく時間が出来たので、テレビを見ると、阪神対巨人戦を放送している。東京ドームだから、当然台風は関係ないが、観客も台風が気になってしょうがないだろうと思った。しかし、試合は阪神の大勝で終わったから、観客も早く帰ることができて、かえってよかった(ヤケ気味)。これで巨人の今年の自力優勝は消滅したが、もともとそんなことはシーズン当初から期待していませんよ、今のチームでは。 |
|
|
|
|
アバド指揮ルツェルン祝祭管のマーラー交響曲第5番のDVDがようやく手に入った。
アバドのマーラーは、シカゴ響との『復活』で開眼して以来、常に聴き続けてきたもの。近年のベルリン・フィルとの第9番、第6番などでの充実振りも瞠目すべきものであったが、2003年にあらたに立ち上げたスーパー・オーケストラ−ルツェルン祝祭管との『復活』も超のつく名演だったから、昨2004年のこの映像も期待大であった。
一気に70分を越える演奏を視聴し終えて、ただただ興奮と感激で一杯である。やはりアバドのマーラーは明快でいながら、この曲の魅力をたっぷりと味あわせてくれた。一時の病も嘘のような元気な指揮振りも健在なのが、何とも嬉しい。開演前の客席に、この演奏の前にベート−ヴェンのピアノ協奏曲第4番で共演したポリーニの姿がちらりと見える。この演奏も映像でリリースしてくれないものであろうか? |
|
|
|
|
昨夜は七月歌舞伎の『NINAGAWA 十二夜』の夜の部を観劇したが、開幕早々あの地震に会い、三階席は大揺れ。お蔭で船酔いしたような気分だった(その時の状況は『六条亭の東屋』の方に携帯からUPしてある)。帰りはまだ電車のダイヤが相当乱れていたから、お仲間の方の出待ちに便乗して、菊之助のサインまでもらってしまう(^^ゞ。怪我の功名とでも言うべきか。その後軽く飲みながらお喋りをして帰ったら、まだ電車が遅れていて、最終電車になってしまった。
さて、『NINAGAWA 十二夜』の再見の簡単な感想。出演している役者の皆さんも、このロマンチック・コメディを歌舞伎化するにあたっての蜷川演出の狙いをより一層深く理解してきたようで、動きが大変軽やかに、また生き生きとしていて、テンポが非常に良くなっている。また、本来の歌舞伎とは異質の言葉の遊びの台詞の部分もかなりこなれてきた印象がある。そのためか、ネタバレになる部分はここではまだ書かないが、前回とは細部で変わっているところも結構あった(一つだけ書いておくと、松緑の安藤英竹は赤いラメの靴を履いているが、靴下が昨夜は右がオレンジ色、左が紫色だったと変わっていた)。だから、喜劇として、なお一層面白くなっている。
観客も今回は第一幕から非常にノリが良く、笑いもつぼを押さえていたところが多かった。菊之助の二人三役は、もう申し分なし。今回はまたとくに時蔵の織笛姫が、完全な歌舞伎の赤姫になっていること、また信二郎の大篠左大臣の憂いを帯びた演技が印象的だった。また、チェンバロやヴァイオリン、ハープなどの西洋楽器が、主人公たちの微妙な心理描写のところに効果的に伴奏として使われていて、絶妙な舞台効果をあげていたことは特筆される。観劇記は出来る限り早くまとめたい。 |
|
|
|
|
昨夜はブログ日記の方は、携帯からの投稿テストのみだったので、こちらはお休み。しかし、携帯メールの要領で簡単に投稿出来るのだから、便利至極である。
週末は大体途中下車して、大型CDショップを見て歩いている。予告は出ているものの、アバドのマーラーの交響曲第5番と9番のDVDはなかなかリリースされないから、今日はジュリーニのマーラー『大地の歌』他を購入する。G・ヴァントのブルックナー等のDVD連続リリースも今月から開始され、第1弾の第5番も大変魅力的だったが、今日は懐具合から見送り、代わりにNAXOSのファリァ『三角帽子・恋は魔術師』を求めた。
この2曲のバレエ音楽は有名曲である割には、本場スペインのオーケストラによる録音は少ない。この盤は指揮者もオーケストラも無名に近いが、さすがにお国物の作品。とても異国情緒溢れる音楽を繰り広げている。『恋は魔術師』の「火祭りの踊り」や「パントマイム」は聴いていて、惚れ惚れするほど魅力的だ。録音も大変素晴らしい! |
|
|
|
|
昼休みに食事に出たら、小学生が一団となって帰ってくる。あれっ?とよく考えてみたら、小学校は今日が終業式で、明日から夏休みに入るのだった。子供が成長してからは夏休みのことはあまり気にかけなくなったから、このように気が付かないのである。それにしてもカレンダーの感覚が平日と休日の区別のみで、かなりずれて来ているようである。
運送関係の親戚から頼まれて時々買っている産地直送のものは、値段も廉くはないが、それなりに東京では手に入らない美味しいものが多い。先日購入した梅干も最近出回っているものは中国産がほとんどであるのに対して、紀州産の梅を使用して、手間ヒマかけて作っているようで、梅本来のすっぱさに蜂蜜がうまくブレンドされているので、暑さで消化力が落ちている時の食事にはもってこいである。梅干が苦手な人間でも毎日1個ずつ食べることが出来る。
ところで、毎年注文している夕張メロンが今年は何故か出荷状況が遅れがちらしく、盂蘭盆用にと頼んでいたのに、ようやく昨日到着して、しかも傷んでいるものもあった。家人がおかんむりで業者に連絡を取ったら、早速誠意ある対応をしてくれた。傷んでいるメロンでも熟しているから、傷んでない部分は甘く美味しく食べられた。
しかし、お蔭で今日はまた仕事帰りに実家に重いメロンを運ぶ羽目になってしまった。 |
|
|
|
|
北原亞以子『慶次郎縁側日記』シリーズを他の本と並行しながら、読み進めている。今は4巻目『峠』。この巻は例外的に表題の中編『峠』が入っているけれども、基本的にはごく短い短編連作集である。しかも、元南町奉行所の定町廻り同心で、根岸にある酒問屋山口屋の寮番である「仏の慶次郎」こと森口慶次郎が主役であることは間違い無いものの、他の江戸下町を舞台にした時代小説とはかなり色合いが異なる印象がある。
それは恐らく慶次郎が全面的に表に出て来るのではなく、江戸市井のさまざまな人間たち−例えば旦那と別れようとしている女房や誰にも相手にされない娘などが主役になって、最後に点景のように登場することや、事件らしきものは少なく、現代社会のどこでもあるような問題が描かれ、したがって、それが明解に解決する訳では無く、微妙な余韻を持って終わっていることに起因しているように思う。また慶次郎の周囲の人物たちも、養子の晃之助は別としても、岡っ引の辰吉や吉次、同じ寮番の佐七など、一筋縄ではいかないようなアクの強い者も多く、面白い。 |
|
|
|
|
この三連休は休養したにもかかわらず、暑さにいささかバテ気味。東京は今日梅雨明けしたようだから、暑いのも当然である。拙宅はまだクーラーが入らないから、さすがに今日の昼間は我慢できず、近隣の図書館へ避難して、昨夜から読み始めた山本一力『あかね空』(文芸春秋)を一気に読了した。
作者はこの作品で直木賞を受賞し、その後旺盛な執筆活動を続けている。一読かなりの筆力があると感じ、すぐに江戸下町の豆腐屋の家族の物語に引き込まれた。主人公の永吉が京から単身下ってきて、京風の柔らかな豆腐の店を、女房のおふみとともに、苦労しながら大きくしてゆく。固めの豆腐が主流の江戸でも良い豆を使った美味しいものを作れば必ず売れるとし信じて、夫婦二人が頑張るさまが気持ちが良い。またそれを暖かく見守る周囲の目。しかし、商売は成功する一方で、不幸な事件も起こり、夫婦間の亀裂と家族の葛藤が後半の物語である。しかし、最後は子供たちがが力をあわせて豆腐屋を続けて行こうと仲直りするハッピーエンドとなり、、爽やかな読後感で締めくくられ、一時暑さも忘れた。 |
|
|
|
|
ネットの情報で、イタリアのバリトン歌手ピエロ・カプッチッリが亡くなったことを知った。日本国内の新聞記事には出ていなかったと思うから、早くも忘れられた人になっていたのだろうか?78歳だった。バスのニコライ・ギャウロフに続く訃報は、またもや一つの時代が終わったことを実感させる。
私個人は、かなりおくてでクラシック音楽のファンになったから、オペラに親しんだきっかけは、その時もっとも脂の乗り切った活躍をしていた彼のヴェルディのオペラだった。ヴェルディ・バリトンとして、カラヤンやアバドのオペラの常連だったから、『シモン・ボッカネグラ』『リゴレット』『マクベス』のタイトルロール、『ドン・カルロ』のロドリーゴ、『アイーダ』のアモナズロ、『オテロ』のイアーゴなど忘れ難い役が多く、ヴェルディのオペラの醍醐味を満喫させてくれた。つい最近もカラヤンの『ドン・カルロ』のLDで、久し振りにそのスタイリッシュで、ノーブルな歌と演技に酔いしれたばかりだったから、この訃報には大変驚き、残念でならない。
こちらのブログで思いだし、押入れのCDの山から引っ張り出して聴いたヴェルディ『アッティラ』(ORFEO D'OR)は、オペラの指揮中に亡くなったシノーポリの燃えるような熱い指揮の伝説的なライヴ録音(1980年12月ウイーン国立歌劇場)だが、主役はアッティラ役ギャウロフにもかかわらず、彼が演じたローマの将軍エツィオのアリア「ついに運命のサイは投げられた」では、珍しいことに劇中でアンコールをするほど観客を熱狂させる名唱を聴かせていた。
手許には、1984年のユーゴスラヴィアでのオペラ・アリアの夕べのエア・チェック録音もある。ヴェルディ以外にはジョルダーノやレオンカヴァルロのアリアも歌っている。これを聴いて、彼の冥福を祈りたい。 |
|
|
|
|
ムーティ&ミラノ・スカラ座の貴重なDVD映像が発売される。
1996年のスカラ座の改修記念のコンサートのライヴ映像であるが、音楽監督のムーティが得意とするロッシーニやヴェルディの曲がずらりと並んでいて壮観である。あのきびきびとした指揮振りからどのような熱い音楽が聴けるか?期待するなというのが無理なくらいである。しかし、一番の注目は、ヴェルディの晩年の傑作『オテロ』と『ファルスタッフ』に台本を提供したA・ボーイトのオペラ『メフィストーフェレ』である。共演の歌手を見ても、レイミー(Bs)やフレーニ(S)が出ているので、恐らくこの曲で歌ってくれることは間違いないであろう。今から発売が待ち遠しい。 |
|
|
|
|
『六条亭の東屋』(ブログ日記)開設のお知らせ
今まで「徒然なる日条」として書いてきました日記を、このたび『六条亭の東屋』としてブログ化しました。ただ、まだブログの機能を十分に使いこなせていませんので(笑)、7月中はほぼ同じ内容を両方に載せて行く予定です。 |
|
|
|
|
今日は新暦の盂蘭盆なので、帰りに実家に寄ったため、簡単に…(と言いつつ、「大いなる小屋」に六月大歌舞伎夜の部観劇記を追加)。
恒例の八月納涼歌舞伎、例年通り勘三郎が三部とも出演するため、一般発売前からチケットの売れ足が早い。楽日のチケットも自力では難しかったから、お仲間の方に助けられた。それにしても、勘三郎はこのように多く出演して、今後の襲名披露興行に差し支えないのだろうか?
気分転換もあって、遅まきながらこの日記のみブログ化を並行して進めている。やはり更新情報はブログの方が早いように思う。何とか近日中に実現して、移行したい(一度作ったが、気に入らずやり直し中)。 |
|
|
|
|
10日(日)深夜に再放送されたNHK教育テレビ『芸能花舞台』の『市川左團次・三代揃いふみ』を録画でようやく観ることが出来た。歌舞伎の市川左團次が、息子の男女蔵、孫の男寅との三代共演の新作舞踊である。市川左團次の舞踊そのものが珍しいうえ、三代共演はなかなか観られないもの。『新版色相方』(そめかえていろのあいかた)と名付けられたこの舞踊は、常磐津『戻駕色相方』の長唄の書替えである。京の色町から吉原仲之町に背景を移して、華やかでいて、大変中身の濃い舞踊になっていた。禿役の男寅がなかなか頑張っていた。この舞踊は個人的にも大変思い出のあるものだから、一度是非舞台にのせて欲しいものである。
『義経』の金売り吉次役で渋い脇を演じている左團次は、今の歌舞伎においても敵役を中心にして、なくてはならない貴重な役者であるが、飾り気も気負いもない人だから、司会者との応答も一見すると無愛想である。しかし、息子や孫は周囲に迷惑をかけない役者になってくれればいい、との答えは控え目ながらも、この人なりに期待をにじませたものであろう。また名跡を襲ぐ後継者がいるのも安心できるというのは本音であると思う。
男寅は祖父と同じ『義経』に安徳天皇役で出演中である。舞台でもテレビでもどちらも出演するのは大変緊張すると言っていたのが初々しかったが、菊之助のような役者になりたいとは志は大きく、これから先が頼もしい。 |
|
|
|
|
昨日からまた暑くなってきた。それでなくとも昨日は中古CD店に大量のCDを処分に行ったり、量販店で故障した掃除機の買い替えもして持ち帰ったりしたので、往復で汗をびっしょりかいた。お蔭で疲れてしまい、昨日の日記はお休み。
今までこの日記にもしばしば書いてきたように、本を読む場合一人の作家に惚れ込むと、その作家の作品を集中的に追いかけてきた傾向があった。恐らく付き合う期間が一番長かったのが、1999年に亡くなった辻邦生である。昨年「読書手帖」にまず『安土往還記』を書いたまま、まだ他の作品をまとめていないが、『嵯峨野名月記』『背教者ユリアヌス』『春の戴冠』『西行花伝』などの代表作は繰り返し読んだものである。変革期の人物を通して、その時代の諸相と人間として生きるとはどういうことか?が真摯に語られているとともに、物語本来の面白さを味わせてくれた稀有の作家であった。
その作品のなかで唯一未読であったのが『フーシェ革命暦』である。フランス革命時の怪人物であるフーシェを通じて、フランス革命とは何であったかを主題とするこの長編を読んでいなかったのは、第T・U部あわせて原稿用紙3500枚ほどの大作であるとともに、まだ続編が出る予定と聞いていたからだった。だが、作品執筆時には常に詳しい創作ノートを作っていて、完成時にもほとんど加筆訂正が無いこの作家にしては、珍しいことにこの『フーシェ革命暦』は第V部半ばで中断されて、そのまま未完となってしまった。だからこの未完部分は単行本化もされず、読めないものと思っていたら、昨年から刊行されている『辻邦生全集』(新潮社)のなかで、幻の第V部も収録されていた!気が付くのが遅く、もう在庫が無い書店が多く、あちらこちら調べて、今日ようやく手に入れることが出来た。大きな散財だったが、これでこの大長編をじっくりと時間をかけても読むことが出来そうである。 |
|
|
|
|
歌舞伎座『NINAGAWA 十二夜』夜の部を観劇したので、感想を少しばかり。
当初はどんな出来になるか少々心配していたが、全体的な印象としては、思っていた以上に歌舞伎になっていて(何をもって歌舞伎と言うかは人によって違うであろうが)、大変楽しめた。蜷川幸雄の演出が、かなり歌舞伎の作劇法に歩み寄っていたためであろうか。
小田島雄志訳を基にした今井豊茂の脚本は、翻案の苦労は並大抵のものではなかった推察されるが、双子の兄妹が嵐のため乗っている舟が難破する場面を付け加えるなど分かり易さを心がけており、立派に歌舞伎に翻案された本になっていたと思う。ただ、シェイクスピアの生の台詞そのものが使われた時には、いささか浮いた部分もあったように思う。
衣裳は王朝風(時代は室町期を想定しているようである)のものが中心で非常に美しかった。舞台装置は場が多い割には、廻り舞台を巧みに使っていて、場面転換も円滑だった。ハーフミラーを三方に使っていたが、とくに殆どの装置は通常の歌舞伎風になっていて、あまり違和感はなかったうえ、逆に舞台映えした場面も多かった。ただ、照明は五月の『野田版 研辰の討たれ』と同様、客席も暗くしてセンターの照明を多用していたから、現代劇風か?
楽器は開幕早々から、チェンバロ(実際には小型のスピネット)が舞台に登場して、大鼓・小鼓とともに歌の伴奏をしたのには度肝を抜かれたが、一面桜の大樹の舞台とよくあっていて、美しい音色を響かせていたと思う。パーセルの付曲などで有名な「もし音楽が恋の糧ならば If music be the food of love」が演奏されたとのこと(7日の日記で触れた演奏者のブログの情報)。また場面転換の際にも、通奏低音風にチェンバロやハープなどが演奏されたが、思った以上の効果を上げていたように思う。また、獅子丸の舞踊(ただし、その衣裳は何故か元禄若衆歌舞伎風!?)の場面は、長唄と竹本の掛け合いまであって、普通の歌舞伎舞踊を観るようであった。
菊之助は兄斯波主膳之助と、妹琵琶姫、さらにはその男装である獅子丸の事実上三役をなかなかうまく演じていたと思う。早替りも見事であり、これから、日を追う毎にますますよくなる感じがする。菊五郎は道化の捨助より、頑固でいじめの対象になる執事丸尾坊太夫がニンであった。時蔵の織笛姫はまったくの歌舞伎の赤姫役を神妙に、しかし時には大胆に演じていた。信二郎の大篠左大臣ははまり役。
さらに、今回は飲み助の洞院鐘道役の左團次、金持ちだが頭の足りない安藤秀竹役の松緑、そして貴族の比叡庵五郎役の團蔵などが、狂言回しの大活躍で舞台を盛り上げていた。しかし、一番の傑作は織笛姫の侍女麻阿役の亀治郎であろう。モーツアルトの『コシ・ファン・トゥッテ』のデスピーナのような小悪魔振り全開で、笑わせられた。
観客も第一幕あたりはやや戸惑っていたようだが、第二幕から大詰へとのりも良くなり、最後は拍手喝采で幕は降りた。大向こうも新しいものにもかかわらず、さすがと思えるようなタイミングで声を掛けていて、いつもの歌舞伎とまったく違いは感じられなかった。 |
|
|
|
|
昨日のイギリスでの同時多発テロは、何ともやりきれない思いにさせられる。またもやアルカイダの犯行と言われるが、何故無辜の市民を狙ってまでこのようなテロを起こすのか?国際政治の怖さを再認識させる。東京でも地下鉄を狙われたら、と思うとぞっとする。今日は東京でも地下鉄など厳重な警備体制がひかれていたようである。
ところで、時代小説の読書が今度は北原亞以子の慶次郎縁側日記シリーズに取りかかりはじめた。『傷』から2冊目の『再会』に進む。しかし、ここのところ読む時代小説は、どうもNHKの金曜時代劇の原作が多い気がする(^^ゞ。 |
|
|
|
|
既に何度か触れた初のシェイクスピア戯曲の歌舞伎の翻案上演『NINAGAWA 十二夜』は今日が初日。昨日は舞台稽古をマスコミに公開したりして、話題にも事欠かない。注目の蜷川演出は実際の舞台を観てのお楽しみだが、世界的にも名の通った人だから、期待していいであろう。
舞台装置も三面にハーフミラーを使っているようで、普段見慣れた歌舞伎の舞台とは一味も二味も違うものになっていそうである。それに、こちらのブログを見付けて、驚いた。歌舞伎の舞台でチェンバロが演奏される!しかもこのような本格的な奏者によって!バロック音楽のなかでも、この楽器をもっとも好む自分にとっては大変嬉しいことである。和楽器との合奏などもあるのであろうか?
よく考えてみると、イタリア・オペラの最初の作品と言われるモンテヴェルディの『オルフェオ』が作曲されたのが1607年だから、シェイクスピアとはまったくの同時代であり、このピアノの前身である鍵盤楽器が使われても、不思議ではない。ただ、何故かイギリスではオペラが発達せず、僅かにH・パーセルが劇付随音楽を書いた程度であり、あのヘンデルでさえオペラは成功せず、オラトリオでようやく名を上げたくらいである。しかし、17〜18世紀にはこのチェンバロが、オペラのレチタティーヴォ(叙唱)などの通奏低音として、クラシック音楽の要の役割を果たしてきたから、シェイクスピア劇に使われて、初の歌舞伎の舞台においてどのように融合出来るのか、または違和感があるのか、観客の反応も含めて、大いに注目したいところである。
ところで、イエズス会の宣教師が布教のために日本に渡って来た時に、教会で日本人の信徒たちに一種の宗教劇のようなものを演じさせたらしき形跡があり、これが出雲の阿国を始祖とする歌舞伎の発祥に大きく影響しているのではないか?と丸谷才一があるエッセーで書いていた。これは阿国歌舞伎の風俗が異国風であることを思えば、肯ける点が多い。とすれば、歌舞伎にチェンバロが使われることは一種の先祖帰りになるのでは?と思うのは飛躍し過ぎであろうか?
いずれにしても、初観劇は9日夜の部。期待と不安が入り混じる。 |
|
|
|
|
昨夜何気なく古い文庫本の山を見たら、戸板康二の中村雅楽探偵譚シリーズの2冊が目に付いたので、引っ張り出して読み始めたら止まらなくなり、1冊目の『團十郎切腹事件』をほぼ読み終えた。
歌舞伎に関する名評論で著名な氏は、もう一つ推理小説家としての顔があり、標題の作品で直木賞を受賞していることは最近では忘れられているかもしれない。歌舞伎の老名優中村雅楽という名探偵を創り出したのが、氏ならではのユニークさである。この雅楽をホームズ役とし、演劇記者竹野をワトソン役に配して、歌舞伎の世界や劇場で起こった難事件を解き明かして行く(そう言えば、先代勘三郎が雅楽、近藤正臣が竹野役で、テレビドラマ化されたものを見た記憶がある)。主人公の設定や語り口などには明らかに岡本綺堂の『半七捕物帳』の影響が見て取れるが、雅楽の洒脱にして、明晰な名探偵振りが何と言っても魅力的である。
しかし、殺人事件だけではなく、尊像の紛失や立女形の失踪、さらには八代目團十郎切腹にまつわる謎の解明など、多様なミステリの面白さを味わうことが出来る。また、評論と同様格調の高い文章も珍重される。しかも、歌舞伎ファンには『車引』『寺子屋』『盛綱陣屋』『髪結新三』などお馴染みの狂言が事件の背景に巧みに使われていて、謎解きの面白さも倍増している。続巻の『グリーン車の子供』以降もこの雅楽探偵譚は書き継がれて、昭和60年代はじめまでは多く作品が読めたのであるが、昨今は文庫本も絶版のようで、大変残念である。 |
|
|
|
|
昨夜行きつけのCDショップをのぞいたら、数量限定で『プロム・アット・ザ・パレス』(opus arte)のDVDが千円少しの値段で売っていたので、ついつい手が出てしまったが、これは大変な買い得だった。
2002年6月イギリスのエリザベス女王の即位50周年を祝して、バッキンガム宮殿内の広場で開催された野外の記念クラシック・ガラ・コンサートのライヴ映像で、120分強もたっぷりと楽しめる。A・デイヴィス指揮BBC交響楽団&合唱団に女王陛下付き英国海兵隊楽団も加わっての演奏をバックに、キリ・テ・カナワやゲオルギュー&アラーニャ夫妻、チェロの世界的巨匠のM・ロストロポーヴィッチなどが、女王はじめ王室一族臨席のもとつめかけた大聴衆の前で熱い音楽を繰り広げる。お国柄とはいえ、ヘンデルの音楽が壮麗でよく似合い、『王宮の花火の音楽』では歓喜の音楽にあわせて盛大に花火があがったのはとりわけ見ものだった。
最後はエルガーの『威風堂々』で大いに盛り上がった後、女王を称えての『ゴット・セイヴ・ザ・クイーン』も歌われて、このコンサートは閉じられた。これが日本だったらと考えたら、このようなコンサートの企画自体思い付かないことだろうとあらためて国情と王室の歴史の違いにまで考えが及んでしまった。 |
|
|
|
|
ここのところ自分の周辺ではいろいろな問題が山積だから、サイトの更新をしている時間が少ないこともあり、また日記の更新を怠ってしまった。ネタがなかったこともあるが、時間をどうやって作るかが課題。
先日購入したドニゼッティ『ランメルモールのルチア』のDVD映像をようやくすべて視聴できた。この作品自体がドニゼッティの代表作であるばかりでなく、イタリア・オペラの傑作の一つで、全編輝かしい歌に溢れているから、一度視聴をはじめたらたっぷりとその世界に浸ることができた。
とくにこの盤は主演のボンファデッリ(S)やアルバレス(T)が、歌のみならず非常に細かいところまで演技をしていることに加えて、舞台装置が簡素でありながら幻想美溢れる美しさであるから、視覚的な面でも、このオペラを十二分に楽しませてくれた。ボンファデッリは歌唱の技術的な面では異論もあろうが、AVの時代にはこのような美しさと演技力をあわせ持った歌手が求められると思う。 |
|
|
|
|
今月の歌舞伎座の『十二夜』は、初のシェイクスピア劇の翻案を、蜷川幸雄の演出で昼夜同一演目、休演日あり、とまさに異例づくめである。朝日新聞の菊之助のインタビューも含めて、こちらのブログが細かく触れている。たしかに菊之助の熱意が実って実現した公演で、その成果が期待される。
一番注目されるのは双子の兄妹の二役を菊之助がどうのように演じ分けてくれるかである。しかも、この妹(役名では琵琶姫)が劇中女でありながら男装するところが一番の見所である。つまり男である女形がさらに男に化け、観る方もそれを知っているにもかかわらず、劇中の登場人物は誰も気が付かない約束で話しは進行する。そのギャップがどういう劇的緊張と面白さとなるか?よく考えてみれば、今さら当たり前であろうが、歌舞伎では弁天小僧やお嬢吉三など女装した男はあっても、男装した女形の役は例が無いはず。
加えて、今までの歌舞伎に慣れた目には、舞台装置も異色のようで、蜷川演出がかなり刺激的なものになるだろうから、歌舞伎の世界にまた一つ新しい風が吹いてくる予感がする。 |
|
|
|
|
来月の大阪松竹座の勘三郎襲名興行を前に、昨日道頓堀で船乗り込みが行われた。江戸時代に江戸や京の役者が大阪で興行する時に、大入りを祈願して行われていたものを近年復活したという。東京での三ヶ月連続興行に引き続き、どのような舞台を見せてくれるのだろうか?もちろん、観に行くことは出来ないが、演目も異なるものがあるうえ、『野田版 研辰の討たれ』などはきっと大阪ヴァージョンがあるのだろう。 |
|
|
|
|
宇江佐真理『髪結い伊三次捕物余話』シリーズも五巻目『黒く塗れ』(文藝春秋)を読了した。伊三次とお文(芸者文吉)の間に男児が生まれ、嬉しいながらも戸惑う二人を主人公にした人情捕物帳もますます快調で、読む者を惹き付けて止まない。
今回はとくに最後に収められた「慈雨」が味わい深い。元巾着切りと小間物屋の娘の純愛の話であるが、二人を思う余りの伊三次の煩悶を、二人に任せろとあっさりと決断するお文と医者のご隠居のお婆さまの言葉が胸をすくようである。また小間物屋の女主人の気風も心地よい。表題のように恵みの雨で心が洗われるような爽やかな読後感であった。 |
|
|
|
|
昼食のために外へ出たら、あまりの暑さに目がくらくらした。事務所が例によって冷房が効きすぎているためだろうと思っていたら、正午前には近くの大手町で6月の気温としては最高の36.2度を記録したようである。これはいくら何でも温度差があり過ぎる。昨夜は熱帯夜のために睡眠不足だったことに加えて、この暑さでは体がまだ慣れていないから、早くも夏バテ気味。
こういう時は家に帰っても何もする気がおきない。だから、読書も軽いものを。塩野七生『サロメの乳母の話』(中公文庫)は世界歴史上の有名人物−オデゥッセウス、サロメ、ダンテ、キリスト、ネロ、フランチェスコなどの知られざる姿を、妻・母・兄弟・乳母などその周辺にいたものたちに語らせる形式の洒落た掌編集。独自の歴史物語を紡ぎ続ける著者が、ここでは必ずしも資料にはとらわれず、想像力も駆使して語る。しかし、そこに描き出された人物像は、やはり作者ならではの鋭い視点があり、歴史の一つの真実を衝いているように思う.。 |
|
|
|
|
更新が遅れたが、歌舞伎座夜の部観劇の感想を簡単に記しておく。それにしても暑いこと、暑いこと!地下鉄から地上に上がっただけで、わ〜っと熱風が吹き付けて来て、汗が噴出して止まらない。お弁当に加えていつも通り飲み物を買ったが、それだけではとても水分補給が足りなさそうなので、珍しくアイスクリームをも購入して、開演前に平らげる。ようやく喉の渇きも癒えて、芝居の世界に浸ることが出来た。
夜の部のメインは、鶴屋南北の『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)の通し。上演時間二時間四十分ほどのものであるが、作者の『東海道四谷怪談』の続編的であり(ということは当然忠臣蔵との外伝ともなっている)、先行作の並木五瓶『五大力恋緘』の書き替えでもある。したがって、南北狂言の特徴がこれでもかこれでもかというほど、ふんだんに詰め込まれていて、非常に中身の濃い話がテンポ良く進む。
話は船頭三五郎が女房の小万を芸者に出して、父の旧主のために何とか百両の金策をしようとしているところからはじまり、小万に入れ揚げている浪人源五兵衛が伯父から百両を手に入れたことを知り、巧みに誘ってその金を巻き上げてしまう。騙されたと知った源五兵衛は一旦は怒りを抑えるが、その屈辱を五人切りで果たし、さらに小万まで殺すなど殺人鬼と化す。このあたりは残虐かつ凄惨な殺しの美をたっぷりと見せる。
他方そのような場面の間には、大家が店子を怯えさせて早く追い出し、金を稼ごうと幽霊の真似をするなどの滑稽な、ある意味では自作の『東海道四谷怪談』をパロディー化して洒落のめしているような遊びが随所にある。また軽妙かつ諧謔な味の台詞が次から次へと飛び交う。
大詰めでは源五兵衛は、実は不破数右衛門であり、戻ってきた百両と三五郎が手に入れた絵図面を手に高野家(高家)へ仇討ちに出かけて行く。三五郎は旧主への面目なさに自害する。殺人鬼が一転して義士となる結末は、いつもならではの南北の発想の飛躍の面白さがあり、義士への批判なのかもしれない。
意外にも初の南北物出演の吉右衛門が、はじめは人の良い浪人から凄みのある殺人鬼に変わってゆくさまをたしかな手応えで演じている。三五郎の仁左衛門もいなせな小悪党を気持ちよくやっていたと思う。ただ、この二人ならさらに男の色気を出して、もっとがっぷりとぶつかってもいいと思うが、当初期待したよりは南北物としてはあっさりとしていた印象もある。時蔵の小万もすっかり持ち役になっていると思うが、妲妃の小万と言われる情婦にはより豊満な色気が欲しい。だから、観終わって満足はしたものの、後に残る余韻が希薄だから、もう一度観劇したいとまでは思わなかった。キレはあるがコクが足りないとでも言うべきか?
最後は舞踊二題。『良寛と子守』は中村富十郎が良寛の人間像をいかに舞踊で表現できるかが見所であるが、初お目見えの富十郎長女渡邊愛(二歳足らず)の舞台での可愛い自然な仕草に目を奪われがち。長男の大も随分しっかりとしてきた。また尾上右近の子守の踊りのうまさも目に付く。『教草吉原雀』は今回長唄版で、普段の鳥売りの夫婦(梅玉・魁春)が吉原の風俗を見せるのみではなく、鳥刺しが現れてこの二人が実は雀の精だったと本性を見現す。最後はぶっかえりの衣裳で華やかな幕切れとなった。こういう歌舞伎味濃厚な舞踊もいいものである。魁春の端正でいて、清潔な色気の女房が目を惹いた。 |
|
|
|
|
梅雨の中休みか、今日は全国的に気温が上昇し、真夏日だったところも多いようだ。東京もそれほど日差しは強くないが、今年はじめての真夏日を記録した。これから一週間くらいこのような暑さが続きそうで、夏バテしないように体調管理が必要だ。
恩田陸『光の帝国−常野物語』(集英社)を読了。最近若い人に人気のある作家で、はじめて読んでみたが、不思議な味わいのある作品であった。常野という遠野を連想させる東北の架空の土地に住む一種の超能力者の一族をめぐる話を短編連作で、しかも登場人物も語り口も変えている贅沢な小説。
ソプラノの期待の新星ボンファデッリが題名役を務めるドニゼッティ『ランメルモールのルチア』(TDKコア)がようやく発売された。一昨年生の舞台を観て一度でファンになったから、このDVDは待望のもの。ゆっくりと映像とその歌声を味わいたい。と言っても、明日は六月大歌舞伎夜の部観劇。我ながら忙しいことである。 |
|
|
|
|
この14日に亡くなったイタリアの指揮者カルロ・マリア・ジュリーニの追悼盤とも言える初音源ライブが、早くも7月に発売される。マーラー『大地の歌』とモーツアルト交響曲第40番の組み合わせで、いずれも1987年のザルツブルク音楽祭での録音。
良質のライブ録音で定評のあるオルフェオレーベルからの発売であることに加えて、オーケストラがウイーンフィルとあれば期待はいや増すばかり。既発売盤はベルリンフィルとの演奏だったから、その比較も興味深い。この前後にはウィーンフィルとの多くの生演奏があるはず(未整理だが、エアチェックでかなり録音した記憶がある)なので、今後もこのようなライブ録音の発掘が期待できるかもしれない。 |
|
|
|
|
政府税調の報告は、サラリーマンを狙い撃ちした増税案としか考えられない。給与所得控除、退職所得控除、配偶者控除など軒並みに諸控除の廃止案を打ち出している。元々所得を捕捉されていて、源泉徴収でがっちりと税金を取られていて、取られ過ぎと思っているうえに、またこの方向で進んだら一体どうなるのだろうか?退職金課税の強化は、団塊の世代の退職金からさらにがっぽり取ろうと目論んでいるのか?
ところで、つくばエクスプレス(TX)の正式開業日は、8月24日(水)に決まっていることを今頃気が付いた。今秋開業と聞いていたので、チェック漏れだが、始発駅の秋葉原近くにいながら、随分うかつなことであった。常磐新線と言われていた頃には本当に建設が進むのだろうか?とその実現性を疑問に思ったほど遅々たる歩みだったが、それが一旦動き出したら、またたくまに開業までに漕ぎ着けた印象がある。
快速で秋葉原〜つくば間を45分で結ぶと言う。しかも第三セクターの新線にもかかわらず、運賃が今までのバス便に比べても遜色ない廉さであるから、秋葉原が首都圏のターミナル駅としての立地条件は悪くとも常磐線のバイバス機能をはたすとともに、開業当初からかなりの乗客を見込めるのではないか?秋葉原駅周辺はそれを当て込んで、大型再開発ビルの建設で大きく変貌しようとしている。開業したら、是非一度乗ってみたい。夏休み中だから相当混雑していそうだが…。 |
|
|
|
|
諸田玲子『お鳥見女房』シリーズの第3作目『鷹姫さま』(新潮社)を読了。前作『蛍の行方』では苦難の末無事探索のお役目を果たして帰還した主人伴之助であったが、心に深い傷を抱えて苦悩する。妻としてその心を癒そうと優しく気遣う女主人公珠世の変わらぬ明るい姿が魅力的である。この巻では長男の縁談相手として格上の鷹匠の勇ましい息女が現れて、今後の展開に興味を持たせるとともに、隠居の父親久右衛門の隠された秘密や次女の恋模様から嫁入りまでが描かれる。
珠世を中心に、居候だった源太夫一家もあわせた大家族的な時代小説だが、このようなほのぼのとした作品は珍重していい。作者の筆が達者なのは亡き向田邦子のテレビドラマをノベライズした経歴によるのであろう。この人の作品は全部読みたくなった(別にの作者が美人だからではない、と言うと言い訳がましいが)し、このシリーズの続編も期待して待ちたい。 |
|
|
|
|
今日は夕方からコクーン歌舞伎の『桜姫』の観劇。勘九郎時代の勘三郎が演出家の串田和美とはじめた渋谷のシアター・コクーンでの歌舞伎は、歌舞伎座では出来ないような新たな試みを続けて、はじめて歌舞伎を観た者にもその面白さの魅力で惹き付け、『三人吉三』や『夏祭浪花鑑』などの名舞台も送り出して、すっかり定着した。
今年は座頭の勘三郎が三ヶ月連続の襲名興行の関係で出演できず、福助が中心となっての串田和美演出の『桜姫』の上演となった。福助にとってもこれは是非一度は挑戦したかった女形の大役であったろう。『桜姫』と言えば、昨年の七月の坂東玉三郎主演の『桜姫東文章』の名舞台が強く印象に残っているから、どうしても比べてしまうのだが、先日の福助のトークイヴェントである程度予備知識を仕入れ、また既に観劇された方からの感想や他のサイトの閲覧でそれなりに内容を把握して、出かけた。
コクーンの芝居小屋風の作りや平場席などは従来と同じである。今回の自分の席がその平場席に座っての初の観劇となったが、幕間を含めて3時間半の観劇を座布団一枚に座って観るのは、椅子席に慣れている身には正直かなり辛かった。しかし、自分の目の前で、しかも同じ目線のところで役者が演じていること、そして平場席の間を役者が縦横無尽に動き回っているのは、舞台と観客が一体化した感じであり、歌舞伎座では味わえない新鮮さがあった。昔の芝居小屋はやはりこのような雰囲気であったような気がする。
昨年の『桜姫東文章』が全部で5時間超の上演時間だったから、内容をかなり圧縮している。しかも現行の上演に使われる郡司正勝氏の補綴にはよらず原典から独自に抜粋したという。そのため一つの手法として、「あさひ7おゆき」(朝比奈尚行)という現代劇の役者を口上というよりも説明役として使い、物語を説明させていた。しかし、やはりこれは両刃の剣であり、物語が説明風に流れていて、浸りきれない印象は拭えなかったし、それでなくとも複雑なこの話を、内容をいくらかは理解しているつもりの自分でも分かり難いところがあったから、観客が十分理解できたかは疑問が残った。また岩淵庵室の場などは演技を途中で止めたりする場面もあり、普段歌舞伎を観慣れている目には少々うるさく感じたところもあった。
装置は前半が役者が乗っている台を非人役の人たちが動かす工夫などをしていて、それなりにこの芝居小屋の作りにはあっていたと思うが、庵室は360度くるくると動かし過ぎと感じた。また発端の江の島稚児ヶ淵の場を省略しているのは、僧清玄と稚児白菊丸が同性愛であって、桜姫はその白菊丸の生まれ変わりだという部分のインパクトがどうしても弱い。
福助の桜姫は前半の桜谷草庵など姫の品格がなく単調。最後の権助住居の場になってようやく本領が発揮されたものの、風鈴お姫が素になっていて意外に良くない。大詰で我が子を手にかけて狂うのは現代的解釈としては分かるが、南北の本領はお家再興がなり、桜姫に戻ってめでたしとなるところであろう。
橋之助の清玄と権助の二役は、やはり権助の方がニンである。これでもう少し悪の部分が強く出ればなおさら良かったように思う。弥十郎の残月と扇雀の長浦は、どちらも達者。
勘太郎の悪五郎は、赤面のいわゆるべりべりとしたところが良く出ているとともに七之助の粟津七郎との滑稽なやりとりも面白く、勘三郎襲名興行から引き続き好調な舞台を見せてくれている。葛飾お十との早替りも見事。
細部には注文を付ける所も多いが、全体的には面白い舞台であり、意欲的な試みは評価してよいと思う。歌舞伎初心者も楽しめたと思う。詳しくはまた観劇記に書きたい。 |
|
|
|
|
昨日から今日にかけて、いつもの運動を兼ねた図書館との往復以外は、自宅にこもって読書とビデオ・LDの整理と視聴。LDはそろそろDVDとして再発されたものと、その見込みが無いものとの色分けがはっきりしてきたようなので、LDプレイヤーが現役で動いてくれる間に、DVD化されないクラシック音楽の貴重なソフトだけでも個人的にDVD化しておこうと、ようやく重い腰をあげてぼつぼつと作業をはじめたという次第。
1990年前後の映像が多いから、今のDVDのような鮮明な画像は望めないにしても、音はデジタルだから十分満足できる。またオペラや宗教曲は日本語字幕付きだから、鑑賞にはまことに都合が良い。折角のDVD化されて再発売されても、字幕付きでないものがあるのだから、困ったものである。まずはお気に入りの指揮者のアバドやガーディナーのモーツアルトのオペラからはじめ、順次ヴェルディやロッシーニのオペラまで手を伸ばしたい。手順さえ慣れれば作業は簡単で、DVD化している間に読書や雑用も出来る。もっとも読書しながら、うたた寝することがあったから、思わぬ失敗もあった(^_^;。
ガーディナーのオリジナル楽器によるモーツアルトは、何回視聴しても軽やかに、また生き生きとした音楽をバックに美しいアリアと重唱、合唱が続き、一時の至福を齎してくれる。 |
|
|
|
|
アメリカでクレジット・カードの顧客データが大量に流出した事件があった。まだ詳細は不明のようだが、場合によってはネット上での不正利用の危険もあるらしい。早く真相を解明し、被害が広がらないように手をうって欲しい。
最近はクレジット・カードに限らず、カードの利用についてはいろいろ問題が出て来ているので、個人的にもカード枚数を絞ってきて、また出来る限り使用しないようにしているつもりだが、このような事件が起きるとますますカードを持つこと自体が怖くなる。便利さと不正利用は紙一重か? |
|
|
|
|
最近どうも女性作家の時代小説にはまっていることは、この日記に書いている通り(その割には「読書手帖」の更新が出来ていないが、これは単に怠惰ゆえ)であるが、またまた魅力的な新刊が出る。宮部みゆき『孤宿の人(上下)』(新人物往来社)である。
人気作家にもかかわらずコンスタントに多方面にわたる分野の作品を刊行する作者の、先般の『日暮し』に続く得意の時代小説の新刊とあれば、食指が動くのは当然だが、やはり購入するか図書館にリクエストするかは、はてさて悩ましい。ファンなら書店の店頭に出るや否や買うのが当然だが、いささか懐との相談があって…(^_^;。 |
|
|
|
|
イタリアの名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニが14日に亡くなった。91歳の高齢であり、コンサート指揮は1998年に引退し、それからはCD録音も出なかったから、ついに来るべきものが来た感じではあるものの、70年代からの世界的大オーケストラとの目覚しい活躍振りをFM放送やCD録音で、ほぼリアルタイムで聴き続けてきた者にとっては、譬えようも無い寂寥感がある。またもや巨匠と言われる人を喪った。
常任指揮者として縛られることを好まなかったようだから、実力はありながらマイナーな指揮者と見られる一時期もあったと思う。だが、マーラー、ブルックナーやドヴォルザークなどの第9番シリーズの録音で精緻で圧倒的な名演を聴かせてからは、瞬く間に世界的な巨匠として認められて、シカゴ響、ベルリンフィル、ウィーンフィルなどとともに活発な録音活動を続けた。モーツアルト、ベートーヴェンやブラームスなどの重厚な演奏も忘れ難い。イタリア人指揮者として、得意のオペラや宗教曲は、もう言うまでも無く素晴らしかった。高貴で端正なマスクとダンディさは歳をとっても変わらなかった。またその深い音楽性と容姿通りの高潔な人格者でもあったようだ。
偏愛している愛聴盤は、ロッシーニの『スターバト・マーテル』(DGG)。これをあらためて聴き、謹んで哀悼の意を表したい。
なお、晩年の名盤の第2期発売がこの22日にあり、そのなかにJ・S・バッハ『ロ短調ミサ曲』、ヴェルディ『聖歌四編』、モーツアルト『レクイエム』などの宗教曲の名曲が含まれているのは、偶然とは言えないような暗合を感じる。 |
|
|
|
|
諸田玲子の時代小説の魅力にとっぷりと浸かってしまった。『お鳥見女房』とその続編の『蛍の行方』(新潮社)に続いて、『悪じゃれ瓢六』(文芸春秋)を一気呵成に読んだ。これは痛快かつ楽しい小説である。
綺羅屋の六兵衛―名付けて瓢六は、長崎の地役人で阿蘭陀語から唐絵の目利き、本草学に至るまで豊富な知識を持っているうえに、女にもてもての世之介並の色男、何故か江戸へ出て小悪党になり、未決囚となる。ところがひょんなことから獄中にいながら、その人脈と知識、目利きの力を活かして、難事件を解決して行く。いやいや協力させられた冴えない同心が次第に瓢六の端倪すべからざる力に頼って、ついには叶わぬ恋の手伝いまでしてもらう。瓢六は今後も事件解決に助力する約束をして、晴れて無罪放免となり、最後はめでたしとなる。近頃これだけ後味のすっきりとした明朗闊達な時代小説も珍しい。
倉橋由美子さんが亡くなった。『アマノン王国往還記』以外にはあまり熱心な読者ではなかったと思うが、大江健三郎とともに新世代の作家として、その才能は眩しい存在だった。合掌。 |
|
|
|
|
ヴェルディの『レクイエム』は、もっとも愛好する宗教曲の一つである。無宗教者がなぜ愛好するかと言えば、恐らくは晩年のヴェルディの作曲技法の全てが投入された壮大な管弦楽と合唱の渾然一体となった世界に魅入られているのだと思う。あらゆる意味でオペラティックであるとともに、また敬虔な祈りがある。
アバド指揮ミラノ・スカラ座の初来日公演で生の演奏を聴いて衝撃を受けて以来、めぼしいCD・DVDにはどうしても手が出てしまう。今度またアーノンクール指揮VPO(ウィーン・フィル)のライブという超魅力盤が出る。オリジナル楽器の演奏から出発して、長らく異端の演奏家と言われていたが、昨今ではすっかり世界的な大指揮者となったアーノンクールがVPOとどのような演奏を繰り広げてくれるか?彼らしいユニークな試みもして、前評判も高いようである。 |
|
|
|
|
地元の図書館本館が毎年恒例の館内図書整理期間に入るので、目ぼしいものは借り出し、後は予約を入れる。新刊の人気本は2〜3ヶ月以上待たなければ、手許に来る見込みはなさそうである。
宇江佐真理『髪結い伊三次捕物余話』シリーズは、3作目から4作目に進んだ。深川芸者の文吉もひょんな事件から、深川を離れて伊三次と所帯を持った。裏店に住む二人をめぐって、人情と事件が起こる。果たして話はどう展開するか?目が離せない。
中間小説誌3誌(オール読物、小説新潮、小説現代)に連載される小説は、読み切り短編でありながら、連作として断続的に連載されて、シリーズとなるものが多いことは池波正太郎、藤沢周平や平岩弓枝の例を待つまでもない。先日読んだ諸田玲子も達者な作家で、多様な時代小説を書いているようだ。今回は『お鳥見女房』シリーズ(新潮社)を借りて、読んでいる。これも、幕府のお鳥見という、言わば裏の任務を持つ御家人の女房を主人公とした連作で、全体として長編小説に趣を持っている。主人公の珠世がどんな問題にぶつかっても、明るく前向きに生きてゆく姿には心和ませられる。 |
|
|
|
|
うっとうしい雨が一日続くと思ったら、関東甲信越は梅雨入りとか。湿気も多く、また過ごしにくい苦手な季節となる。
一日遅れだが、鴈治郎の坂田藤十郎襲名の正式発表のこと。今年の南座恒例の顔見世から初春の歌舞伎座へと順次襲名興行は続く。勘三郎襲名と重なる襲名興行である。
しかし、ご本人の藤十郎襲名にかける思い入れと意気込みはよく分かるが、たとえ歌舞伎、とくに上方歌舞伎においては大事な名跡ではあっても、二百年以上も途絶えていては、その襲名は実感としてはどうもぴんと来ない。もちろん血のつながりはない。あくまで和事の芸の伝承を考えてのうえのことであろうが、襲名披露の演目もとくにこれと言って目新しいものはなく、いささか期待外れ。
ところで、鴈治郎の名跡は長男の翫雀が同時に襲ぐと思っていたのだが、違ったようである。一時的にせよ、鴈治郎の名跡は無くなるとはやや寂しい。 |
|
|
|
|
勘三郎襲名披露の舞台で『髪結新三』を観たためでもなかろうが、先日読んだ諸田玲子と並んで、最近時代小説で活躍する宇江佐真理の作品に『髪結い伊佐次捕物余話』シリーズ(文芸春秋)があるのを見付けて、まず第1作の『幻の声』から読み始めた。
主人公は廻り髪結いをしながら、町方同心のお手先をつとめる設定であるが、愛人に売れっ子の辰巳芸者の文吉がいて(これがまた気風のいい芸者である)、この二人を中心に周囲の人間がとてもよく書けているので、事件の解決もさることながら、登場人物の運命や行く末に深い憐憫を覚える。この巻では畳表を作っている老母や火事にのめりこむ同心の妻が印象的であった。またいつもの癖でこのシリーズを通して読んでしまいそうな予感がする。
なお、昨日の福助のトークイヴェントではまだ発表していないがとの断りのうえで、八月納涼歌舞伎では勘三郎は『法界坊』を、福助は『金閣寺』を出すと言っていたが、今日の正式発表では三津五郎の『伊勢音頭』もあり、例年以上に盛り沢山な演目である。勘三郎は襲名の舞台の疲れもあるだろうに、この納涼歌舞伎には大変意欲的である。座頭としての責任であろうか? |
|
|
|
|
中村福助が今渋谷のコクーンで上演している『桜姫』について語るチケット付き(観劇は20日(月)の一階平場席前の方!)のトークイヴェントに参加でき、なかなか面白い話を聞いてきた。福助は真っ白な背広で、シェイクスピアの翻訳家で劇評家でもある松岡和子氏を相手にソフトな語り口で一時間以上も語り、参加者は既に観劇した人も多くいたので、話しにくい点もあったろうが、桜姫上演をめぐる裏話や歌舞伎の魅力を熱心に語っていて、非常に好感を持てたトークであった。
あさひなという歌舞伎以外の人を起用して、口上をかなり多用していること、扇雀がかなりぶっ飛んだ長浦になっていること、分量的には圧縮しているが南北の魅力を十分出せるよう作者の意図をかなり忠実に読み込んだ串田氏の演出になっていることなど、コクーン歌舞伎ならではのものを見せられるよう、出演者も議論して毎日少しずつ舞台も変容してきているようである。ただ、残念なことに三囲土手の場はカットされて、別の形で清玄と桜姫がすれ違うようだから、昨年の玉三郎の『桜姫東文章』はあまり念頭におかず、別のものを観るくらいのつもりで行った方がいいかもしれない。出演の役者も演出の串田氏の指導を受けていろいろ大変ではあっても、楽しそうに毎日やっている雰囲気がよく伝わってきた。来月蜷川演出でシェイクスピア『十二夜』歌舞伎版を出す菊之助が今度は同じように苦労するだろうが、どんな舞台になるか楽しみでもある、とも福助は語っていた。
先日の火曜サスペンス劇場への出演や『題名のない音楽会』の歌舞伎とオペラの競演の試みも、歌舞伎の敷居を低くして、少しでも多くの人に親しんでもらいたいという気持ちでやったと語り、勘三郎同様新しいものに挑戦して行く意欲と姿勢は素晴らしいものだと感じた。その他にも面白い話が多かったが、ネタバレの恐れもあり、ここでは書かない。
舞台装置もコクーンらしい猥雑な小屋のイメージのようで、また恐らく役者が平場を歩き回るのだろう。観劇当日が期待できる。 |
|
|
|
|
これがCDショップのクラシック音楽コーナーでベストセラーになっているらしい。たしかに薄型ケースに6枚入りで3000円は格安であるし、指揮者・演奏者を廉価盤では考えられないような大物ばかり揃えていて、有名曲のさわりをちょうど100曲、全約7時間の収録となっている。
なるほど、これなら初心者ならずともついつい手が出そうになるほど魅力的である。だが、よく考えてみるとこれらの有名曲は、指揮者・演奏者は異なってもほとんどは全曲盤を自己のコレクションとして持っている。だから、PCを活用すれば、自分の好みでいくらでもこのようなベスト盤を作れるのだが、いかんせん手間ひまかけて作る時間と気力が無い。もっとも、整理が悪いから、どこに何を仕舞ってあるかを見付けることが最大の難事であることも事実だが…(^_^;。 |
|
|
|
|
先日からぼつぼつと読み始めた夢枕獏『陰陽師』シリーズ(文芸春秋社)をすべて読み終えた。現在刊行されているのは短編集6冊と長編『生成り姫』の計7冊であるから、作品の数としても多い訳ではない。一つの短編も短いものが多いから、じっくりと玩味するように読んだ。
作者も言っているように、陰陽師安倍晴明と友人の笛の名手源博雅の二人を名コンビの主人公として、慈しむように楽しみながら書いているので、京の都に闇に跋扈する鬼たちを退治する話が多いにもかかわらず、読後感は淡い余韻や爽やかさを残す。しかも「人は誰でも、時に、鬼になりたいと願うことがあるのだよ。誰でも皆、心には鬼を棲まわせているのだ」と語る晴明には、成仏できず鬼となった人たち・ものへの優しさがある。また博雅はまさに好い漢(おとこ)である。
草木生い茂る清明の屋敷の濡れ縁―簀の上で、いつも二人はほろほろと酒を飲みながら、世の中や人の生き様を語り合う。そのうち多くは博雅が持ち込んだものだが、最近起きた怪異な事件が語られて、その解明に晴明が博雅を連れて出かけて行く展開は毎度同じである。そして、必ず次の会話となる。
「『ゆこう』
『ゆこう』
そういうことになった。」
しかし、ここまで読む読者は何かほっとして、晴明ならきっと味な解決をしてくれるだろうと期待し、実際にその通り満たされるので、満足感は大きい。唯一の長編『生成り姫』は、シリーズ全体を総括しながら、二人の人物像をより明確に描き出すとともに、短編『鉄輪』の主題をさらに発展させていて、短編とはまた異なった味わいがある。また蓬髪の陰陽師蘆屋道満も、晴明の好敵手でありながら、奇妙な連帯感があって、登場してくると話の膨らみが出てきて、さらに楽しくなる。しかし、『陰陽師』シリーズの醍醐味はやはり短編にある。作者がさらに書き続けてくれることを期待して、待ちたい。 |
|
|
|
|
鼻風邪と馬鹿にしていたら、なかなか治りが悪いので、日記は二日間お休みにして、もっぱら休養。たまにはこのような休みも取ることが、長く続けるためには必要であろうと割り切ることにした。
それでも面白いもので、その間にも海老蔵襲名の巡業公演のチケットを譲っていただける話が来たり、迷っているうちに売り切れとなったコクーン歌舞伎の『桜姫』の中村福助のトーク・イヴェント付きチケットがキャンセル待ちで、それもほとんど難しいと言われたものが確保出来たと事務局から電話連絡が入って来た。ネットワークを広げていると、いろいろ有難い話につながることを実感するこの頃である。 |
|
|
|
|
6月に入って早々、昨日1日の日記を休んでしまった。たまには休もうと思っているのだが、大体はどうも忘れ物をしたようで、何やかやと書くのが習慣となっている。ところが昨夜はさすがにそんな気になれなかった。
どうも鼻風邪を引いたようで、体がだるかったのである。勘三郎襲名の三ヶ月連続の舞台が終わって、ふっと気が抜けたことが一番の原因なのだろう(笑)が、日中いる事務所のクーラーが効き過ぎることにも原因がありそうだ。時には寒くて上着を着たままでいるが、それでも寒いので室温を下げるようお願いしていても、あまり体感温度は変わらないような気がする。
「クールビズ」とかで、ノーネクタイのラフな服装で出勤して、省エネに貢献して欲しいと政府は考えているようである。省エネは大賛成であるが、背広にネクタイが、勤め人の正装で、それを着なければ相手に失礼に当るという考え方なり意識なりを払拭できなければ、なかなか普及しないのではなかろうか?
加えて、背広は意外と便利なもので、眼鏡や名刺入れなどはらくらくポケットに入る。もし背広でなければ別に小物入れを持たねばならないのは、かえって物を失くす恐れがある。しかし、本音を言えば、この年齢になると背広以外に着る物を見付けるのが結構面倒であり、また高くつくのが困るのが正直なところであろうか?
それにしても、今日もやはりクーラーが効き過ぎ!何とかして欲しい! |
|
|