阿川弘之


『井上成美』(新潮社)
戦前の日本海軍の軍人のなかでも山本五十六や米内光政の名前は知っていても、井上成美のことを知っている人は少ないであろう。私もこの評伝三部作を読むまで未知の人だった。作者のように海軍予備中尉で従軍した人ですら、知らなかったのだから、部外者が知らないのは当然である。しかも、謹厳実直を絵に描いたような性格で、正論を直言するから周囲に煙たがられた(仇名は「三角定規」)ようであり、また何度も本人が辞表を提出したにもかかわらず慰留され、結局同期唯一の、そして海軍最後の大将にまで登りつめたことは、日本海軍のリベラルさを示す一事例とはいうものの、理解を超える人物である。

しかし、作者は戦後三浦半島の長井に逼塞して、貧乏暮らしをしながら、英語塾を開いて主に児童教育にあたった井上の姿からはじめ、その生涯を行きつ戻りつしながらいつものように多くの資料と証言から克明に描いている。妻に早く先立たれ、病身の長女と幼い孫を抱えるというこれほど家庭的に恵まれない高位の軍人も珍しいが、自分の筋を頑なにまで守りながら公の場には一切出ない徹底振りには、畏敬の念すら感じさせる。また、大病を患った時に世話になった婦人と再婚するけれども、それも愛情と言うより恩返しともとれる結婚で、概して女性関係も綺麗な人だったらしい。

米内光政がこの人を海軍軍務局長、次官と使ったことにより、三国同盟の一時的阻止や終戦工作がうまくいったと思われ、一時は自分の後任の海軍大臣と考えていたふしがあり、しかしそれは種々の事情で実現しなかったし、また本人はそれを望んでいなかったようである。あくまで井上成美は米内光政のような大きい人の懐刀としてこそ、その持てる力を十二分に発揮できたようである。

自らは政治よりは、江田島の海軍兵学校長になった時に教育を己が天職と見極めたようで、戦後一時疎遠となった孫が教育関係の仕事に就いたことを我がことのように喜んだという。昭和十七年という時期に海軍兵学校長になったにもかかわらず、事実上世界語である英語を知らない海軍軍人はありえないとして、最後まで英語教育を止めさせなかったというエピソードは、この人の識見の高さを感じさせる。それでも、戦後の自らの述懐に日本海軍は「根無し草のインターナショナル」とやや自嘲的にある。陸軍のように下克上で暴走することはなかったとしても、井上成美のような海軍の軍人がもう少しいればあの戦争はいくらか様相を異にしたのではないか?と考えるのは歴史におけるifかもしれない。いずれにしても、作者がこのような埋もれた人物の公正な評伝を書き、既に書き上げた『山本五十六』『米内光政』とともに三部作としてくれたことに、読者としては感謝しなければならないであろう。


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