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この本は、人体の解剖書『ターヘル・アナトミア』を蘭語(オランダ語)から訳した画期的な訳書『解体新書』の、その事実上の中心人物であった前野良沢を主人公にした歴史小説である。最近はいざしらず、その訳業の苦労を綴った『蘭学事始』により、その著者杉田玄白が主となって訳したと一般には言われ、また実際前野良沢の名は訳業の関係者に入っていない。しかし、この『冬の鷹』を読むと、それは史的事実とは異なることが分かる。
千住の刑場で人体の解剖(腑分け)に立ち会ってみて、この翻訳を志した時、蘭語を少しでも解することができたのは前野良沢のみであり、彼の主導により、苦しみながらも牛歩の歩みのごとくこの書の訳出が完成するのである。しかし、いい意味では学究肌ではあるが、狷介で人と交わるのを好まない良沢は、この翻訳刊行の訳者に連なることを肯んぜず、一生をオランダ語研究にささげ、貧しい孤高の学者として世を去る。
他方、杉田玄白は『解体新書』の訳者として名を上げることにより、生来の世渡り上手から江戸一番の蘭方医となり、また弟子の育成にも手腕を発揮して、名実ともに功成り遂げる。しかし、そこには彼の世俗欲も容赦なく描き出されて、良沢との対比が鮮やかである。作者のほかの作品もそうであるが、この良沢も何か一途に一つのものに向ってとりつかれたように突き進む、暗く激しい情念をもつ主人公として造形されていて、静かな感動を呼ぶ。 |
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