吉村昭


『冬の鷹』(新潮文庫)
この本は、人体の解剖書『ターヘル・アナトミア』を蘭語(オランダ語)から訳した画期的な訳書『解体新書』の、その事実上の中心人物であった前野良沢を主人公にした歴史小説である。最近はいざしらず、その訳業の苦労を綴った『蘭学事始』により、その著者杉田玄白が主となって訳したと一般には言われ、また実際前野良沢の名は訳業の関係者に入っていない。しかし、この『冬の鷹』を読むと、それは史的事実とは異なることが分かる。

千住の刑場で人体の解剖(腑分け)に立ち会ってみて、この翻訳を志した時、蘭語を少しでも解することができたのは前野良沢のみであり、彼の主導により、苦しみながらも牛歩の歩みのごとくこの書の訳出が完成するのである。しかし、いい意味では学究肌ではあるが、狷介で人と交わるのを好まない良沢は、この翻訳刊行の訳者に連なることを肯んぜず、一生をオランダ語研究にささげ、貧しい孤高の学者として世を去る。

他方、杉田玄白は『解体新書』の訳者として名を上げることにより、生来の世渡り上手から江戸一番の蘭方医となり、また弟子の育成にも手腕を発揮して、名実ともに功成り遂げる。しかし、そこには彼の世俗欲も容赦なく描き出されて、良沢との対比が鮮やかである。作者のほかの作品もそうであるが、この良沢も何か一途に一つのものに向ってとりつかれたように突き進む、暗く激しい情念をもつ主人公として造形されていて、静かな感動を呼ぶ。
吉村昭『破獄』(岩波書店)
この小説を歴史小説として括るのは異論があるかもしれない。戦前・戦後に四度にわたって刑務所から脱獄を繰り返した男の物語であるからだ。たしかに実在のモデルがいて、作者は例によって綿密な調査と資料収集によってこの作品を書いているが、あくまで小説の結構を保っており、また戦前から戦後の行刑制度、言わば日本の刑務所の歴史を背景としている。しかも、作者は『長英逃亡』や『天狗争乱』など、執念ともいえる逃亡劇を演じる人物を主人公とする、言ってみれば逃亡物に傑作が多く、この作品もその流れに連なると思うので、一種の歴史小説であると見ることが出来る。

したがって、読む者は主人公がどうやって不可能ともいえる独房から脱獄できたのか?という推理小説的な興味もあることは事実であるけれども、いかに脱獄を阻むかと尋常ではない苦労を重ねる刑務所関係者の視点から主に描いているので、物語にふくらみがある。最後は府中刑務所に収容された主人公が、所長の破格の暖かい処遇に「人間としての扱い」を感じ取り、「もう脱獄は疲れました」というくだり、そして無期懲役であったが、五十歳を過ぎて仮出所できてからは、その所長の自宅に毎年手土産を持って年賀に訪れるという律儀さを思う時、いかに罪を犯したとはいえ、刑務所での更生に向けた処遇の重要さを感じ取れるのも間違いないであろう。

しかし、そのような固い話は抜きにしても、前半の主人公の超人的な手口の脱獄対刑務所側の対応の苦闘の過程が、一旦読み始めると止められないような驚くべき事実が次々と展開するスリル溢れる物語でもある。それを、作者の筆は常に冷静で、透明な文体で淡々と綴ってゆく。吉村昭氏の小説は、いつも読んでよかったと思わせるような静かで、心に染み入るような感動をもたらす。この作品も少しでも多くの人に読んでもらいたい作者の代表作の一つである。


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