鮎川哲也


『黒いトランク』(創元推理文庫)
これは、本格推理作家鮎川哲也の事実上のデビュー作であるばかりでなく、戦後本格ミステリの出発点とも言うべき記念碑的な傑作である。この人と土屋隆夫がいなければ、現在の島田荘司をはじめとする新本格派の登場は無かったであろうと思われる。

鮎川哲也は『憎悪の化石』や『黒い白鳥』など代表作を上げるのに悩むが、まず第一に指を折るべきは、本作品であることには異論が無いであろう。汐留駅(今はJRに駅はもうなく、ゆりかもめで復活しているが往時とは様変わりである)に送られてきた黒いトランクから発見された男の腐乱死体の犯人を追って、鬼貫警部がアリバイの厚い壁とトランクの移動の謎に挑む。今となっては時刻表を使ったアリバイのトリックは少しも珍しくないが、それでも鮮度は失っていないうえ、さらにまったく同じ黒のトランクが移動していて、鬼貫警部も読者も迷わされる。しかし、周到に伏線が張られており、その推理も無理がないから、本格推理小説の名に恥じない論理展開と結末には十分唸らせられる。また、これ以降の多くの長編と短編で鬼貫警部が主役となって活躍するのも当然であると思う。

しかし、今回読み終わってから気付いたが、創元推理文庫版は過去に大きく2ヴァージョンある版のどれでもなく、作者が各版を比較検討して最終的に手を入れたものだという。しかも、この文庫とほぼ同時期に出版された光文社文庫は初版によるものだという。この作品に対する作者の愛着度合いが分かると言うものであるが、なるほど文章も引き締まって無駄が無く、それでいてそこはかとない哀愁を漂わせている。しかし、当然削除された部分もあるようだから、やはりファンとしては両方持っていて、読み比べることも一興かもしれない。


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