宮尾登美子


『きのね(柝の音)』(朝日文芸文庫、新潮文庫)
歌舞伎ファンとしては再読したいと以前から思っていたこの作品を、風邪をひいて寝込んだ病床で一気呵成に読了した

1988年〜89年にかけて朝日新聞朝刊に連載された時毎日欠かさず読み、単行本になって再度通読して、大変感銘を受けた長編小説である。女主人公光乃が、ある歌舞伎役者の家に女中として仕えて、忍従と戦争中の苦労や主人の病気などに耐えながらもわりない仲となって二人の子供まで産す。やがて主人が大名跡を襲名し、光乃も正式な妻として認められその苦労が報われたかに見えたが、主人は不治の病に冒されて襲名後わずか三年で亡くなり、残された子供を役者として大成させようとする半ばで、宿痾の病で光乃も亡くなるという苛烈なまでの影としての人生が描かれている。

歌舞伎に詳しい方ならば仮名で登場する役者たちは誰々と一目瞭然で分かるから、フィクションを交えているとはいえ、梨園といわれる歌舞伎役者の世界にここまで踏み込んで書いてあることがまず最初の驚きであった。しかも戦前から戦後にかけて役者の家はいかに封建的だったかとあらためて実感する。しかし、この小説はまったくそのような興味本位的な読み方をはるかに越えて、女主人公が仕えた主人を愛し、常に影のごとく寄り添い、不器用で世渡りが下手な主人に役者としての生き方をまっとうさせるよう貫き通した光乃の生きざまに感動するのである。

とりわけ「聖母子」の章で、主人も産婆さんもいないまったく一人で長男を産みおとすところは、襟を正してしまうような荘厳かつ厳粛な場面であり、産後に呼ばれた産婆さんと同様、思わず合掌したくなる。

作者の時に浄瑠璃とも評される文体は女主人公の心の奥襞までわけ入り、慎ましやかでそれでいて気丈な女心の心理の綾を巨細に描きだす手練は、これまた一つの藝と言っていいだろう。そう、『序の舞』に連なる藝道小説として、間違いなく本『きのね』は作者の代表作として残るであろうし、また歌舞伎の市川宗家を影から支えた人を永遠に刻み込んだ記念すべき作品ともなるだろう。
『宮尾本平家物語』全4巻(朝日新聞社)
現在朝日文庫で全4巻が文庫化されているが、ハードカバーの初版は中島千波の装画と中島かほるの装幀が歴史絵巻の雰囲気豊かで、読書の楽しみを倍加させてくれた。

この全4巻を通読した感想を簡単にまとめるのは至難の業である。それは作者独特の和文脈の語り口による平家一門の興隆から栄華、そして急激な没落までの物語の世界に浸りきると、あたかも登場人物たちと同じ時代に生きて、ともに喜びと哀しみを味わっているが如く感じるからである。作者は「あとがき」で週刊誌連載中読者から「むずかしすぎる」「長すぎる」との批判があり、それは事実である、と肯定している。しかし、他方原・平家物語の文章の美しさをあえて残そうとしたこと、また千人にものぼる登場人物たちを描き切るのには、まだこの全4巻では十分に描ききれていない、とも言っているが、まったく同感である。私の目から見ても、もっと膨らませて大長編にしてもよい題材と世界だったと思う。

しかし、それを割り引いてもこれは作者がその持てる力をすべて投入して書き上げた渾身の歴史傑作長編であり、自らの名前を冠しただけのことはある。この作品を書くにあたって作者は最新の歴史研究成果を十分参考にして書いたようであるから、ここでは以下2点ばかり触れておきたい。

○ 清盛が白河法皇のご落胤であること
これは清盛本人が、世が世ならば一天万乗の君になりえた可能性もあり、後白河法皇を幽閉して、事実上の政治の実権を握ったことにもつながっている。しかし、長男重盛に先立たれてからは、有力な後継者を失い、急坂を転げ落ちるように、平家一門の没落がはじまるのは、この驕りとも言える清盛の強引な振る舞いにも原因があったであろう。

○ 壇ノ浦で入水した安徳天皇は実は弟の守貞親王だった
つまり守貞親王が安徳天皇の身代わりになり、安徳天皇はその後守貞親王として後白河法皇から愛される。しかも、一旦は出家までしながら、弟後鳥羽法皇が承久の乱により配流となり、急遽後高倉院として院政を執るまでに至る。院の早世により、それは短期間であったが、平家の血筋を天皇家に残そうとした清盛の妻時子たちの思いを神が助けたと平知盛の妻で、守貞親王の養い親でもあった明子(あきらけいこ)が見届けたのである。物語の後半の事実上の主人公がこの時子であったことも肯ける。これはまだ仮説かもしれないが、歴史上十分ありうるifである。

このような刺激的な説も包含しながら、宮尾本平家物語は大河の如く流れてゆく。読者はただ作者の自在な語りに身を任せれば、一つの世界を生きたような錯覚にとらわれるであろう。
『藏』(角川文庫)
宮尾登美子は、いわば芸道ものとでも称されるようにひとつのことに自分の全生涯を賭ける人間に魅了されて、『一弦の琴』や『序の舞』、そして『きのね』などの作品を書いている。この『藏』もその系列に連なる大変素晴らしい傑作である。作者にしては珍しくこれといったモデルはなく、日本独自の酒造りの魅力を目が不自由でありながらも、蔵元として逞しく生きた女性を主人公にしている。

酒どころ新潟の大地主で酒造りの蔵元の娘に生まれた烈は、兄や姉が何人も夭折したたため大事に育てられるが、不幸にも鳥目となり、やがて全盲となってしまう。一人娘であり、母が病弱であるため母の妹佐穂が乳母のようにして育ててくれるが、かえって我が儘で気性の激しい子供時代を送る。

しかし、美しい少女に成長し、分別も付いた烈は、母、祖母、そして腹違いの弟の事故死で父が酒造りの意欲を無くした時に、ご先祖さまに申し訳がたたないようなことはできない、と自分が酒造りを続けることを強く望み、やがて父もそれに協力するようになった。そして、藏人との恋にかける激しい情熱は、やがて結婚、跡継ぎの男子誕生と蔵元を存続させるまでになったが、病を得て46歳で早世する。

女主人公の名前通りの苛烈なまでの生き方は、越後の自然風土を背景にして、会話を地元の方言で通しているので、さらに読むものに強烈な印象を与える。烈を支える叔母佐穂の控えめながらも一本芯の通った生き方、そして父意造の家父長としての悩み・苦しみなど、いずれも共感できる人物たちが織り成す宮尾文学の世界は、一つの浄瑠璃を聞いているがごとく、深く魅力的なものである。
『錦』(中央公論新社)
待望の宮尾登美子の新作長編。錦織に憑かれた男を主人公にしたもので、作者としては珍しい部類の作品である。作者があとがきで語っているように「龍村の帯」というのは女性の憧れの的であり、その帯を血のにじむような辛苦の末生み出した龍村平蔵(作品では菱村吉蔵)の苦闘の半世紀を描くことが主題となっているから、芸道ものの範疇に入れていいものだろう。

丁稚からはじめて若くして織物工場を持った主人公は、その持ち前の性格から一旦うちこむと脇目もふらず工夫をして、新しく画期的な織物を次から次へと作りだしてゆく。それらは多くの実用新案登録をするまでになる。しかし、その職人気質は企業としての経営はなかなか両立せず苦労するが、そこへ持ち込まれた橋田家(加賀前田家と思われる)からの名物裂の復元にはじまり、法隆寺の御戸帳、そして正倉院の琵琶袋と立て続けに貴重な仕事を委嘱され、美術工芸家としての名声は上がってゆく。しかし、その道のりは平坦ではなく、とり憑かれたように仕事に邁進する彼は波状的に神経を病む。主人公の妻、芸者上がりながらもつつましく薄命な妾、そして公私共に蔭から支えるお仙という三人の女たちのそれぞれの生き方がまるで織物のように絡み合う。とりわけこのお仙が、作者好みの耐えながらも愛する男のために強く生きる女を精彩ある筆致で描き出し、もう一人の主人公の趣きがある。

宮尾文学の真骨頂である独特の語り物のような文体は健在で、一度その世界に身を浸すと心地よく読み耽ることが出来る。まして今回は織物美術の世界である。作者が紡ぎ出す古代日本と中国の美術工芸品の世界を、美しき日本語でただ堪能するだけでさらに贅沢な気分を味わう事ができるのである。


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