山崎豊子


『不毛地帯』全4巻(新潮文庫)
『華麗なる一族』のテレビドラマ化で知られた山崎豊子は、大学病院の腐敗を描いた『白い巨塔』や戦争を扱った『二つの祖国』と『大地の子』など豊富な取材をもとに多くの力作・傑作を書いている。その中でも私は元大本営の陸軍作戦参謀だった壱岐正(故瀬島龍三氏をモデルにしたと言われる)を主人公にして、悲惨なシベリア抑留体験と帰還後の商社での国内外での活躍と苦悩を描いたこの作品が、その世界をまたにかけたスケールの大きさと取り上げている主題の重みから見ても最高傑作だと思う。

今回読み返しても、原稿用紙で五千枚にものぼる大長編にもかかわらず、一気に読み通した。戦争責任はあったにしても、多くの軍人が戦後ソ連によって不法に酷寒の地シベリアに長期間抑留され、不当な強制労働をさせられていた惨状をこの作品で作者がつぶさに描いていることは特記してよいことだろう。まさに「白い不毛地帯」である。

ようやく十一年の抑留生活から帰還し、まだ繊維商社と言われた近畿商事の社長に見込まれて、嘱託で入社して以降、否応無しに自衛隊の次期戦闘機にかかわる商戦に関与して、その緻密な頭脳を駆使して、契約を勝ち取ることができたが、陸軍時代の同期を死に追いやってしまうという心の傷を受ける。このあたりはロッキード事件を先取りした激烈な商戦と政治家の関係を抉り出している。

その後、主人公は異例の栄進を遂げ、専務・副社長にまで登りつめる。その間、日米の自動車提携問題や中近東での石油開発などの大プロジェクトを、秀れた部下を巧みに使って手がけ、成功する。オイルショック以前に日本の石油確保のために独立系の石油会社と組んで独自に掘り当てようとする試みは、一商社の利益もさることながら、太平洋戦争でも石油問題で失敗したという教訓を生かして、国のためという壮大な意気込みを感じる。それにしても、石油開発をめぐる政治家や石油原産国の複雑怪奇な利権、そして荒野での掘削に至るまで気の遠くなるような多額のカネ・モノの投資と労力は、これまた作者が言う「赤い不毛地帯」という言葉が相応しい。

しかし、何よりもこの作品の魅力は、やはり陰影はありながらも清々しい主人公の生き方であろう。陸軍中将の娘で女流陶芸家との恋も、彩りを添える。石油掘削の成功を花道に恩ある社長に引退を迫り、自らも辞す出処進退の鮮やかさは、いつも自分の戦後は「生きて、歴史の証人となれ」という先輩軍人の言葉に励まされて生きてきたが、商社での栄進は常に本意ではなかったのであったろう。最後はシベリアの地に眠る同胞たちの慰霊のために向かって旅立つところで、この物語は終わる。


トップへ
トップへ
戻る
戻る