平成16(2004)年の観劇記

平成16年12月4日、26日(千穐楽):『阿国歌舞伎夢華』『たぬき』『今昔桃太郎』−十二月大歌舞伎夜の部観劇記
昼の部に続いて、勘九郎が二役で大活躍して、師走らしい肩の凝らない楽しい舞台を見せてくれた。

『阿国歌舞伎夢華』

歌舞伎の創始者出雲の阿国については、研究者の努力にもかかわらず、その出自さえ不明らしい。恋人と言われる名古屋山三との関係すら定かではない。しかし、それゆえになおさら後世のものの創作意欲を刺激する対象になるのであろう。数多ある阿国もののなかに、また一つ歌舞伎舞踊による新しい阿国が加わった。

玉三郎の阿国に段治郎の山三という清新な組み合わせによる新作の長唄舞踊は、やはり花道の出から玉三郎の凛とした美しさに目を奪われる。彼の踊のうまさには定評のあるところだが、今回は五ヶ月振りの歌舞伎座出演もあるだろうけれども、この阿国は非常に大きく、華やいで見える。共演している澤瀉屋一門の花形女形三人および芝のぶと並んでも、群を抜いた美しさだ。また恋人山三への思いもその所作一つ一つで観るものを納得させる。立女形の際立った存在感を感じさせた。

阿国一座が「念仏踊り」を踊り、阿国が念じるとスッポンから名古屋山三の亡霊が現れる。最初観た時は段治郎の影が薄かったように感じたが、楽日では見違えるような大きさで、阿国の思われ者としての色気も十分であった。また総踊りも含めて、全員の踊りのアンサンブルも格段に良くなっていて、華やかな元禄絵巻になっていた。

なお、阿国をはじめ各登場人物の衣裳や鬘には、元禄当時の絵巻物に見られるような異国趣味をも取り入れたかぶいた風俗が少ない点は、いささか不満が残った。

『たぬき』

大佛次郎作のこの作品の主人公は、何と焼場で生き返った柏屋金兵衛という男。家付き娘の妻に嫌気が差していた彼は、これ幸いにと妾のお染の家に行ったところ、お染には愛人がいて茫然とする。自分の金を持ち出し、まったく別人となって商売に成功した金兵衛は、以前遊んでいた芝居茶屋に現われ、幇間蝶作を驚かせるとともに、自分の元の家の近くにやってくるが、そこで見たものは…。

一見喜劇仕立てだが、そこには人間の裏表を知り尽くした作者の深い洞察があるから、ほろ苦い味がする。今回の三津五郎の金兵衛は、その作者の思いを十分理解し、計算した役作りで、観るものも自分もあのような立場におかれたら、きっと同じような行動をとったであろうと感じさせた。とりわけ、別人となってからの低音をきかせた科白、そして、実の子供だけは騙せなかったと知った時の思い入れには、共感させられる。

勘九郎の幇間蝶作が、これまた傑作。金兵衛を見て死んだ人とそっくりと驚き、慌てるさまはなまなかな喜劇人でも出来ない面白さで、笑わせられる。本当にうまい!福助のお染は例の高音の科白まわしが、いい方向に出ている。脇では隠亡の多助役の助五郎が、ヴェテランらしく、作者の思いを体現したような生きた人間を描き出していて、今回の舞台をより深みのあるものにしていた。

・大喜利『今昔桃太郎』〜苦労納御礼(くろうのかいありかんしゃかんしゃ)

四十五年前『昔噺桃太郎』で初舞台を踏んだ勘九郎も、来年五十歳になるのを機に、亡父勘三郎の名前を襲名する。猿若座(中村座)の太夫元の由緒ある名前を、歌舞伎役者としても大きな名前にしたのは先代である。それだけに勘九郎も新たな覚悟と意欲で舞台に臨むことを決意しているであろうが、また永年慣れ親しんだ勘九郎の名跡にも愛着があろう。

これは勘九郎が名跡の最後の舞台として、渡辺えり子が新た書き下ろした、鬼退治に成功し、意気揚々として引き上げた桃太郎の四十五年後の後日譚である。桃太郎は自分では体の自由がきかないほど肥え太り、しかも気が付いたら、世の中はいつのまにか鬼の支配する世界になっていたというお話。

子息七之助、信二郎、門之助をはじめとする中村屋一門が鬼に踊り狂わされる場面が、迫力十分かつ躍動的な舞踊で目を瞠る。また竹本が真面目に高々と歌っているのは微笑ましい。

勘九郎が過去の舞台から得意の舞踊をメドレーで踊るのも楽しい。それも肥えた桃太郎の扮装のままで次から次へと舞踊の名曲のさわりを踊るのだから、並大抵の技量ではない。しかも、踊るごとに体が痩せて行くのも趣向として面白い。さる高名な劇評家が十数番踊ったと書いているのは、明らかに間違いである。以下、記録として、ここにその演目を記しておく。なお、楽日には『連獅子』(仔獅子)の毛振りまであり、数え切れないほど何十回も振っていた。

『藤娘』→『まかしょ』→『船弁慶』(知盛)→『棒しばり』→『紅葉狩』(山神)→『身替座禅』→『鏡獅子』→『高坏』→『連獅子』(仔獅子)

初舞台の時に犬に扮した又五郎が、長老の犬として元気な姿を見せているのが嬉しい。また一門の最古参の小山三も同じ雉役でしっかりと支えている。最後に凛々しい桃太郎姿になって、新たな鬼退治に出かける幕外の勘九郎の姿に、勘三郎襲名の決意表明を観る。

楽日は役者も観客の乗りに乗っていて、舞踊にあわせて手拍子、また大向こうから「勘九郎」の掛け声もいつになく多かった。勘九郎が花道に引っ込んでも拍手は止まず、スタンディング・オヴェーション!カーテンコールが二回あって、くす玉まで登場。「勘九郎親方、大きな夢を有難う」と垂れ幕があった。勘九郎の挨拶も感極まったのだろうか、涙声だったようだ。最後の幕外で言った「良き人々にめぐり合えて、果報者」というセリフは当初台本になかったことを明かしていたが、たしかに彼の気持ちそのままであったろう。多くの役者・スタッフ・観客に愛される彼は、本当に幸せな役者であると思う。なお、作者の渡辺えり子も舞台に上がって、盛大な拍手を受けていた。最後の締めとして、又五郎の音頭で観客と伴に盛大に三本締めがあったことを付け加えておく。それでも終わらない観客の拍手に勘九郎自ら幕を引いて、幕外でさらに深々と御礼の挨拶をしていたのが印象的だった。

順序は逆になったが、『御存鈴ヶ森』に簡単に触れておく。人気狂言としてたびたび出るが、前半の白井権八と雲助の立ち回りと、後半の幡随院長兵衛との出会いで「お若いの」と呼び止めるところが見所。七之助の権八が白塗りの似合う清新な適役。対して、橋之助の長兵衛はさすがにまだ若過ぎて、貫禄不足である。
平成16年12月18日、26日(千穐楽):『八重桐廓噺』『身替座禅』『梅ごよみ』−十二月大歌舞伎昼の部観劇記
・『八重桐廓噺−嫗山姥』

通称「しゃべり山姥」と言われるように、福助演じる八重桐が劇中一人で多彩な踊りと仕草で語る「しゃべり」が見所。これは前回時蔵が演じた時の舞台を見逃していたので、はじめて観たが、近松の原作だけあって、良く出来ていて面白い芝居である。福助も熱演。自害した夫の魂が体内に入り、女ながら怪力を持つようになる設定も珍しい。最後の大立ち回りでは、手水鉢まで投げ飛ばす。この母から坂田金時が生まれたというのも納得できる。ぶっかえりからの見得も大きく決まっていた。

信二郎の夫蔵人はやわらかみがあり、いい味を出している。赤面の弥十郎も敵役の存在感を感じさせると同時に、煙草づくしのユーモラスなセリフも笑わせる。儲け役と言われる腰元お歌に猿弥とは意表をついた抜擢だが、よくその期待に応えていて、福助との絡みもなかなかの出来であった。

・『身替座禅』

恐妻家の浮気を題材にした狂言舞踊。勘九郎の右京、三津五郎の妻玉の井ともに、それぞれ祖父六代目菊五郎、曽祖父七代目三津五郎が初演した家の芸とも言うべきものだから、科白から踊りまでやることなすことすべて抱腹絶倒物。勘九郎は筋書きで言っているように「何もしないで上品につとめたい」との抱負そのままに演じていたと思うが、それがかえっておかしみを感じさせる。また三津五郎もただの恐妻家ではなく、夫右京を愛しているあまりの怖さを声の使い分けによって、演じ分けている。この組み合わせでもう何回も出ている気がしたが、十一年振りの再演とか。とてもそうは思えないほどつぼにはまった名コンビである。玉の井が太郎冠者と入れ替わって座禅衾をかぶっているとも知らず、愛人花子との楽しかった逢瀬を思い出しながら、語って聞かせる踊は、勘九郎が酒も入ったうえでの一人二役を見せる。そして、衾を取ったら、そこには恐妻玉の井!それからの二人のスローモションのような所作は、この喜劇を締めくくるに相応しい面白さ。

・『梅ごよみ』

有名な為永春水の人情本『春色梅児誉美』などを原作にしたこの狂言は、現行の台本は木村錦花の脚色によっており、深川の辰己芸者の意地と張りが見もの。丹次郎という色男をめぐって仇吉と米八が張り合うところが最大の見せ場。玉三郎の仇吉、勘九郎の米八のコンビで演じるのはもう四回目。やはりこの二人をおいては他に考えられない絶妙の組み合わせである。男のような名前を持つだけではなく、伝法で粋な科白の応酬も耳に快くぽんぽんと聞こえて来る。丹次郎に抜擢された段治郎も健闘していた。最初に観た時はこの二人の女(?)の争いには影が薄くなっった印象があったが、楽日にはもう水も滴る江戸前の色男振り。七月の清玄・権助の二役といい、抜擢に十分応えた出来であった。

以下、簡単な見所。

序幕 第一場 向島三囲堤上の場
第二場 隅田川川中の場

米八と丹次郎に、その許嫁お蝶が絡む恋の鞘当。ただここでの春猿扮するお蝶は鬘と衣裳のためだろうか、町娘には見えない。その後の隅田川川中は、歌舞伎座の廻り舞台一杯を使っての見せ場。丹次郎とお蝶の乗った舟を見送った屋形船から現われた玉三郎扮する仇吉が、うっとりと「いい男だねえ」。

二幕目 第一場 深川尾花屋入口の場
第二場 同奥座敷の場

丹次郎にぞっこん惚れた仇吉は、尾花屋で忍び合い、新しく仕立てた羽織を着せかける。そこへ米八がやってきて、嫉妬に狂っい、羽織を下駄で踏みにじる。激しい女の争いに丹次郎は姿を消す。留めに入った藤兵衛の顔を立てて二人はしぶしぶ引き下がる。玉三郎と勘九郎の丁々発止のやりとりが見もの、聞きもの。

三幕目 第一場 深川中裏丹次郎内の場
第二場 深川松本離れ座敷の場
第三場 深川仲町裏河岸の場

悔しさでどうしても虫が収まらない仇吉が丹次郎の家に乗り込んできて談判。帰りがけにまた米八と鉢合わせ。花道での二人のつんとしたすれ違いが面白い。仇吉の同輩政次の計略に乗せられて、丹次郎と仇吉が松本で密会する思い、血相を変えて乗り込む米八。だが、そこには侍がいるだけ。手討ちにするというところを藤兵衛の仲裁で、米八は詫びを入れるが、仇吉は羽織の意趣返しと下駄で米八を打つ。このあたりは鏡山の草履打ちの趣向を踏まえているようで見せる。

最後の裏河岸の場では米八が仇吉を待ち伏せていて、斬り合う。だが、丹次郎が主筋のために探していた茶入れが無事手に入り、二人も自分が悪かったと仲直り。だが、そこへ藤兵衛が丹次郎とお蝶の祝言を薦めると、二人は「しらけるねえ」。何ともあっけない幕切れだが、これもこの狂言の理屈抜きでの他愛ない面白み。

ここで「本日の昼の部はこれ切り〜」となるが、千穐楽は勘九郎の名跡最後の舞台ということで、玉三郎が今までの二人の名コンビ振りを示すような異例とも言える長く、また心の籠った口上を述べて、観客のうならせた。これに対して、勘九郎も女形の姿のまま地声で挨拶するというアンバランスが笑いを誘ったが、「襲名興行に三ヶ月も付き合ってくれるんですよ」と恥ずかしそうに、しかしまた嬉しそうに話していたのが印象的だった。
平成16年9月12日:『高時』『茶壷』『一本刀土俵入』『菊薫縁羽衣』−九月大歌舞伎昼の部観劇記
・『高時』

九代目團十郎が力を入れた活歴物(活きた歴史物という意味で史実を重んじた狂言)の一つである。だが、概して活歴物は史実に忠実になろうとするあまり、逆に歌舞伎のある意味での大らかな面白さに欠ける面がある。飼犬を大事にして、人間の命を軽んずる北条高時を主人公にした黙阿弥作のこの狂言も、作者の狙いとは少々異なり、高時の傲慢さを天狗に散々になぶられるところに見所がある。とりわけ天狗たちのアクロバチックな動きが、脇役たちの見事なチームワークで躍動感溢れる面白さである。

橋之助の口跡には定評のあるところだが、この高時役にはまだ若さが露呈していて、重みに不足する。しかし、今後の精進で持ち役になる予感は十分である。亀寿が気骨ある若武者を好演。

・『茶壷』

七代目三津五郎が振り付け、初演した舞踊だから、三津五郎にとってはお家芸とでも言うべきもの。今回も翫雀と息のあった楽しさ一杯の舞台を見せてくれた。田舎者胡麻六(翫雀)の持っている茶壷を盗ろうとした熊鷹太郎(三津五郎)が、目代某にどちらが本物の持ち主か試される。もちろん偽者の太郎は、言うことなすことすべて胡麻六の物真似のうえ、連れ舞などもワンテンポ遅れたところに何ともいえない可笑しみが溢れる。三津五郎の踊りは大向こうを狙ったようなわざとらしさがなく、爽やかな笑いを提供してくれるのは嬉しい。

・『一本刀土俵入』

長谷川伸作のこの股旅物は歌舞伎とは異質だと思うが、六代目菊五郎が初演して以来人気狂言になっている。無一文で江戸へ出て相撲取りになろうとする茂兵衛を、宿場女郎のお蔦が可哀想に思い、金や櫛、簪まで恵んでやる。二階からしごきに結んで下ろすところは有名な場面。勘九郎の茂兵衛の木訥さ、福助のお蔦の情の深さが交錯して、見慣れた「我孫子屋の場」がなかなか味わい深いものになった。福助はもう少し蓮っ葉な面を抑えれば、なおさら良いお蔦になるであろう。小山三、芝喜松、助五郎などが脇をがっちり固めているから、よりこの場面に膨らみがある。

十年後、やくざになった茂兵衛が受けた恩を返そうとやってくると、辰五郎の女房になったお蔦の家は、辰五郎の追う儀十一味に取り囲まれている。お蔦は最初茂兵衛のことを思い出せないが、相撲の頭突きを見て思い出す。お蔦の世話女房姿、また勘九郎のいなせな渡世人姿とも前場とは違った味を出していて、また見所である。儀十一味を追い払った茂兵衛が見せるものこそ、お蔦に約束して叶わなかった恩返しの土俵入りである。

なお、その前の布瀬の川の場面で、老船頭の幸右衛門や芦燕がいずれも渋い演技で、地味なこの場をしみじみとしたものにしていた。

・『菊薫縁羽衣』

新作舞踊であるが、五代目福助の七十年祭追善と宜生の初舞台の披露口上が眼目。幼児の時に孤児となった芝翫が、今は子、婿、孫の大勢に囲まれて梨園一の子福者になっていることを素直に寿ぎたい。
平成16年9月11日:『重の井』『男女道成寺』『蔦紅葉宇津谷峠』−九月大歌舞伎夜の部観劇記
『重の井〜恋女房染分手綱』

通称『重の井の子別れ』は長編狂言の十段目にあたるようだが、この子別れの部分のみしばしば上演される。江戸へ嫁入りが決まった調姫の乳人重の井が主役、俗に片はずしと言われる立女形が演じ、芝翫が当り役としている。今回も貫禄十分で、忠義と実の子供に対する母親の愛情との間で揺れ動く心の動きをたっぷりと見せてくれた。

またその別れた子供馬方三吉も、実は武士の子で母重の井を恋い慕うという子役のなかでも難役中の難役。以前芝翫の子息の橋之助が演じて、名子役として名を馳せたもの。今回は彼の長男国生が素直に、またひたむきに演じて、観る者を涙させた。血筋は争えないものである。とくに最後の馬子唄はやはり分かっていてもいつも通り泣かされた。

今回は調姫に福助の長女の中村佳奈も出ていて、「嫌じゃ姫」を可愛く演じていた。またお目付け役なのであろうか、橋之助が腰元若菜役で出ていたのが珍しい。弥十郎の赤裃の赤じじいも適役。

『男女道成寺』

数ある『娘道成寺』ものの一つで、最初二人の白拍子花子が登場して舞を舞うが、その一人が実は狂言師左近だったという趣向が見所。だが、意外に早いうちに分かってしまうので、あまり趣向の面白さが生かされていない。また左近役の橋之助は、『重の井』の腰元役でその女形振りが観客の目に触れているので、意外性も薄い。

花子役の福助ともども踊は達者で、観る者を惹き付ける美しさはあるが、折角の豪華な長唄と常磐津の掛け合いも、名曲の流れを止めるような感もあり、十分に舞台に浸り切れない憾みが残った。

なお、狂言半ばの口上で、橋之助の三男宜生の初舞台の披露があった。可愛い所化姿の宜生は残念ながらお辞儀だけでご挨拶はなかった。これもご愛嬌か?

『蔦紅葉宇津谷峠』

勘九郎の座頭文弥と堤婆の仁三の二役、三津五郎の伊丹屋十兵衛が、ともに初役でがっぷり四つに組んだ河竹黙阿弥の世話狂言、全三幕五場。十兵衛が主のための金策に京へ上ったものの不首尾に終わった帰途、鞠子の宿場で助けた座頭文弥が、百両という大金を持っていたことから、心ならずも文弥を殺してしまい、その後仁三に脅されるなどその因果応報に悩まされる話。

三津五郎が、真面目一方なるがゆえに主のために殺人を犯す商人を手堅く演じる。あまり見せ場が無く、心理のみで表現しなければならない難しい役であるが、宇津谷峠での殺しに至るまでの心の動きには観る者を納得させる必然性があった。

勘九郎の二役は、早替りがもちろん見所であるが、座頭と商人実は悪のやくざの対照的な役の演じ分けが見事である。とくに堤婆の仁三は実直な商人が凄みのある悪に切り替わる鮮やかさがある。また、早替りも早いだけではなく、当然吹き替えと見せておいて実は替わっている場面もしばしばで、観る者を唖然とさせる。

以下、場面ごとの簡単な感想。

序幕 第一場 藤屋座敷の場

東海道鞠子の宿の宿場風景。浪人や商人が同じ宿に泊まり、和気藹々と会話している場面が面白い。その中で商人に化けた仁三が盗みを働き十兵衛に見付かるが、哀れみを乞うて助けてもらうものの、部屋の外へ出た途端せせら笑う変貌振りは見もの。

序幕 第二場 宇津谷峠

座頭文弥を助けて送りながら、殺しに至るまでの三津五郎の丁寧な心理描写と、勘九郎の早替りは、この場が白眉である。

第二幕 第一場 伊丹屋店先の場

ここは何と言っても勘九郎の仁三の脅しに黙阿弥物の悪の凄みを見る思い。十兵衛の苦悩は深まる。

第二幕 第二場 伊丹屋裏手座敷の場

十兵衛の女房が文弥殺し以来、その怨霊に悩まされていることが分かる場面で、実際に呼ばれた按摩が文弥に替わる怪談味もある。

大詰 鈴ケ森の場

今はこれまでと仁三を殺した十兵衛の腹切りの場面。十兵衛の苦悩はやっと救われる。
平成16年8月28日(千穐楽):『御浜御殿綱豊卿〜元禄忠臣蔵』『蜘蛛の拍子舞』−八月納涼歌舞伎第一部観劇記
『御浜御殿綱豊卿〜元禄忠臣蔵』

真山青果の大作−『元禄忠臣蔵』のうち、「大石最後の一日」と並んでもっとも有名な演目の一つ。染五郎、勘太郎、七之助等若手花形の共演による舞台。

甲府宰相綱豊卿とは、後の六代将軍徳川家宜のこと。その綱豊が時の将軍綱吉から、疑われぬよう本心を隠して御浜御殿に遊ぶ姿を描きながら、赤穂浪士の仇討ちを通して大義とは何かを真正面から取り上げた新歌舞伎の傑作。

この戯曲の良さを十分に味わうには青果の息の長い科白を、観客を酔わせるような名調子で聞かせて欲しいのだが、染五郎、勘太郎ともそこはまだ経験不足で、今だしの感がある。しかし、一年二ヶ月振りの歌舞伎座出演の染五郎には、この綱豊は本人の資質にあった、いわゆるニンである。品格・口跡とも十分だから、後は経験を積み重ねて役の深み・陰翳が出せれば持ち役となろう。勘太郎はまだ硬さが残るものの、頑固なまでの忠義一途な若者−助右衛門をひたむきに演じていて好感を持てた。

七之助は町娘の雰囲気を残した美しい中臈で、一番のはまり役。孝太郎の江島も後の有名な事件を起こす奥祐筆役だが、ここは理知的に演じていた。橋之助の新井勘解由(白石)は少々貫禄不足。いじめ役の上臈の歌江はヴェテランの味で貴重。

『蜘蛛の拍子舞』

大蜘蛛の化身が主役の鬼女ものの舞踊。舞台には大きな蜘蛛も登場して古径な味がある。前半は白拍子姿の妻菊(福助)が、源頼光(三津五郎)に名刀を見せて欲しいとやってきて、何とか刀を奪おうとするが、家来の碓井貞光(橋之助)に阻まれる。この後鼓の拍子にあわせて、三人が唄いながらかわるがわる、また一緒に踊るところが珍しく、見所である。ここは刀鍛治の名前を織り込んだ廓通いを唄うところもあるので、もう少しはずんだ楽しさが欲しいところ。

妻菊が蜘蛛の本性を現すと、一旦花道のスッポンに消えた後、お約束の隈取になっての立回りとなる。坂田金時役で勘九郎が登場。さすがに大きな荒事芸を見せて、観客を沸かせた。
平成16年8月28日(千穐楽):『蘭平物狂』『仇ゆめ』−八月納涼歌舞伎第二部観劇記
・『蘭平物狂』−倭仮名在原系図

全体では五段にわたる時代物の第四段目に当たるようだが、今日ではこの『蘭平物狂』のみが上演される。在原行平の家来の蘭平は、倅思いで、また主人のためによく尽くしている忠義な奴。ところが、刀を見ると急に正体を失って、乱心するという奇癖がある。その物狂が実は行平を仇と狙うための偽であって、弟の義純をも探していた伴義雄がその蘭平の本当の姿。二人揃って仇を討とうとしたところ、さらにもう一つ実は…、となって全部が蘭平の正体を明らかにするための策略であったことが分かり、大立回りとなって蘭平は捕らえられるものの、倅に伴家の再興が許される、といったなかなか複雑な話である。

しかし、この狂言が今でも単独で上演されるのも、ひとえに立師故坂東八重之助工夫の華麗な大立廻りが評判を呼んでから人気狂言となったもの。最初は二代目松緑が得意としたそうだが、私はその子息三代目松緑(初代辰之助)の颯爽とした舞台に魅了された思い出がある。今は四代目松緑も持ち役にしているようだが、三津五郎も父から受け継ぎ、得意としている。実際に彼の蘭平を舞台で観たのは今回がはじめてである。

この狂言がどうしても派手な立廻りに目が行くが、今回の三津五郎は蘭平物狂の秘密と倅に対する愛情をしっかり見せて、時代物の面白さを十二分に味あわせてくれた。

舞台は全二場に別れている。

第一場 在原行平館の場

前半は病の行平のために蘭平が偽の愛妾松風を連れてくるところ、そして逃げた罪人の追っ手に選ばれた幼い倅繁蔵を心配する場が主である。三津五郎の蘭平は、粋な奴振りと倅を思う親としての情愛にも不足は無いが、何と言っても見所は行平が怒って抜いた刀を見て、乱心して踊りだすところである。いつもながら要所要所をきちっと押さえた踊りだから、形も美しく決まっていて、奴姿のままであっても、女に見えたり、馬子に見えたり、融通無碍である。彼の踊りのうまさを再認識した。

正気に戻ってから、現われた橋之助扮する与茂作が弟と分かり、名乗りあうところは一転して時代物の美しい古風な見得が決まる。

第二場 在原行平館奥庭の場

伴義雄と正体が分かって、大勢の捕手との大立ち廻り。花道でのはしごを使った殺陣、屋根から石燈籠、そして舞台へのトンボなど観るものをハラハラドキドキさせる立ち廻りが続き、息をもつかせない。これは捕手役の大勢の役者との息があわなければ出来ないもので、危険も多い。そんななかでこのような観客を興奮させるような立ち廻りを見せてくれた縁の下の力持ちの三階さんと言われる役者さんたちの奮闘とチームワークをあらためて讃えたい。


・『仇ゆめ』

狸が島原の傾城深雪太夫(福助)を見初めたことから起こる舞踊喜劇。父勘三郎が初演した狸を今回は子息の勘九郎が楽しそうに演じている。踊りの師匠に化けて、深雪太夫に踊りを教える場面なぞ、はちゃめちゃでやり過ぎとも言われかねないほど勘九郎は乗っている。だが福助もうまくあわせているから、下品に流れない。

千両箱を手に入れれば身請け出来ると知って、狸は何とか手に入れようとするが、狸と気がつき、懲らしめようとした揚屋の亭主たちに狸は散々に打たれて息も絶え絶えになる。しかし、深雪太夫恋しさゆえに、狸は千両箱を持って太夫のところまで辿り付く。その愛情に打たれた深雪太夫の膝のうえで狸は息絶える。このラストシーンには救いがあり、ただの喜劇に終わらない哀愁があった。

舞踊劇としてではなく、人情味ある喜劇と見れば面白い出し物であるが、これが勘九郎だから楽しく出来たが、同じように演じられる役者が他に果たしているものだろうか?
平成16年8月10日(初日):『東海道四谷怪談』−八月納涼歌舞伎第三部観劇記
毎年恒例の三部制による勘九郎・三津五郎を中心とした納涼歌舞伎は、第三部が『東海道四谷怪談』の四年振りの再演となった。一部で噂のあった野田秀樹の本が間に合わなかったのか?それとも来年の勘三郎襲名興行まで延期したのか?真相は定かではないが、前回の上演を見逃していたので、今回の通し上演は有難かった。

ただ、惜しむらくは今回も上演時間の関係で、『三角屋敷』の場がカットされている。これでは主役の一人である直助権兵衛の描き方が中途半端に終わってしまって、今回折角三津五郎が好演しているだけに、まことに残念である。先月の『桜姫東文章』と同様、時間的にどうしても一興行に収まりきらなければ、昼夜に分けてでも是非全編の通し上演を実現してもらいたいものである。

今回は四年前とほぼ同じ顔ぶれでの上演だから、初日の観劇でもみな手馴れていて、十分楽しめたが、反面初日らしい緊張感に欠けていたと感じたのは私だけであろうか?一座の面々が平成中村座のニューヨーク公演の疲れがあったとは思いたくないが…。

勘九郎は、お岩、佐藤与茂七、小仏小平の三役を相変わらずの鮮やかさで見せ、それぞれきっちりと描き分けていた。その中ではやはりお岩の武家の妻女の品とけなげさが見所。伊藤家からもらった薬を毒薬とも知らず、感謝しつつ飲むところなどは最後の一粒まで飲むところまで丁寧に見せていた。だから、後に騙されて毒薬を盛られたと知ってからの怨みの深さとの対比がくっきりとしてくる。ただ、有名な髪梳きのところは、これも丁寧ながら怖さが髪が抜けるという形に流れていたようにも感じられた。もっとおどろおどろしくあってもいい。父勘三郎の髪梳きは本当にぞっとしたものである。

橋之助の伊右衛門は、まさにはまり役の色悪。さらに悪の凄みが出ればなおさらよい。三津五郎の直助権兵衛は、ずるがしこい小悪党振り。ただ三角屋敷の場が無いと、もう一つ見せ場が不足する。福助のお袖もニンだが、二役のお花はしどころが無く、気の毒。

粗筋は有名なので略して、以下簡単な見所のみ。

序幕 第一場 浅草観世音額堂の場
第二場 按摩宅悦内の場
第三場 浅草観音裏地蔵前の場
第四場 同 田圃の場

第一場ではお岩を除く主役たちが登場して、物語の行く末が暗示される。南北の作劇術のうまさがここでも光る。第二場の地獄宿(私娼窟)で私娼を買いに行った与茂七が相手が許嫁のお袖と分かり、痴話喧嘩になるところは何とも言えない可笑し味がある。第四場は伊右衛門の義父殺しと直助の主殺しが見せ場。勘九郎のお岩が、落ちぶれてはいるが武士の妻の品を出している。

二幕目 第一場 雑司ケ谷四ツ谷町伊右衛門浪宅の場
第二場 伊藤喜兵衛宅の場
第三場 元の伊右衛門浪宅の場

お岩が毒薬により高熱と顔の痛みを発して、苦しむところ、そして自分の容貌が醜く変わったことに気付いた時の驚き、髪梳きなど見所は多い。勘九郎は熱演。弥十郎の宅悦の好助演もあって、何の罪もないお岩の怨みが強く印象付けられる。

三幕目 砂村隠亡堀の場

戸板に打ち付けられたお岩と小平の死骸が流れ着き、瞬時の早替わりを見せる。さらにあっという間に与茂七に替わり、だんまりとなる。舞台が明るくなっての主役四人の絵になるだんまりである。

この後、染五郎扮する舞台番藤松が登場して、省略された三角屋敷の部分を説明するのは親切だが、染五郎の出番がこれだけとはもったいない。

大詰 第一場 蛇山庵室の場
第二場 仇討ちの場

ここではお岩の怨霊が提灯抜け、井戸からの宙乗り、仏壇返しなどのケレン味一杯で楽しませる。ただ、劇場内を暗くした割には観客の背筋を凍らせる工夫がもう一つあってもよかったと思う。
平成16年7月11日、24日昼、25日夜、28日(千穐楽):『桜姫東文章』−七月大歌舞伎観劇記
猿之助の病気休演のため、長年続いた恒例の七月猿之助奮闘公演も、今月は坂東玉三郎を座頭に据えて澤瀉屋一門との共演という思いがけない舞台となった。しかし、そのお蔭と言おうか、あの伝説の『桜姫東文章』の19年振りの再演となった。

個人的には以前から再演を渇望していた演目である。昭和62年に歌舞伎観劇を再開した時に、玉三郎の当り役として過去に何度か演じられて評判を取ったことを知り、もっと以前から見ておけばよかったと歯噛みした苦い思い出がある。以来待てど暮らせど再演が無く、ようやく今回瓢箪から駒のように実現した、待望の通し上演である。

その間、わずかに玉三郎以外の上演もあったのだが、初見は是非とも玉三郎の桜姫で、とあえて観劇を見送った。それはこの鶴屋南北畢生の大作の主役の桜姫を演じられるのは彼しかいないと思っていたからである。この狂言の上演の歴史を調べてみると、元々美貌の女形五代目岩井半四郎と七代目市川團十郎の当てて書かれたためか、その後何故か忘れ去られて、昭和に入ってやっと復活したものの、かろうじて六代目歌右衛門、雀右衛門等が桜姫を演じたのにとどまる。

それは恐らくこの桜姫が立女形が演じるのはあまりにも破格の難役だからであろう。公卿のお姫様が、犯された悪党の釣鐘権助の子まで生して恋い慕い、高僧清玄を破戒させて、非人にまで落とされ、さらには風鈴のお姫という遊女にまでなる。そして最後にはわが子をも殺し、親・弟の仇として権助を討って、姫に戻る。何とも南北ならではの奇想天外の話である。

だから、一つの性根を見せる場合が多い女形の役の中で、この桜姫は、公卿の姫という性根を根本にしっかりと据えながらも、まさに一身多生と思えるような多くの遍歴・流転を一人の女として矛盾無く見せなければならない。お染の七役は一人の女形が次々と早替わりで異なった役を見せてゆくのに対して、この桜姫は一人の人間として多層的、多面的な面を見せなければならない難しさがある。渡辺保氏が女の胎内めぐりと評していたが、言いえて妙である。

今回の待望の初見は、やはり待っていた甲斐があったと言える素晴らしい桜姫であった。高貴な品格の姫が官能に溺れて堕ちて行くさまと、ばくれんの遊女の切れと可笑しみ、哀しさの対照の鮮やかさなどはやはり今この人を置いて他に桜姫を演じる人はいないと思わせた。恐らく坂東玉三郎という稀有の女形の肉体を通じてのみ、この桜姫はその全貌を現すのであろう。二百年近くの時を経て、南北の世界がこのように現代に普遍性を持って蘇えるのも玉三郎あってのことである。

彼の若い時の上演を観られなかったから、その時との比較が出来ない憾みは残るが、逆に言えば19年振りの再演という今にめぐり合えたこその喜びも大きい。当時は経験していなかった八ツ橋・政岡・尾上・阿古屋などの立女形の大役を次々に演じての熟成と、お嬢吉三などを初演するという挑戦をも経ての今回の玉三郎の桜姫、より豊饒で官能的、そしてコクとキレがあったと感服した。

なお、当初心配した師匠猿之助の休演での若手中心の澤瀉屋一門との共演であったが、まずは一門のなかでそれぞれ適役揃いで、よくぞここまでという健闘振りである。とりわけ、清玄・権助、そして稲野谷半兵衛の三役を演じた主役の段治郎は、声を大にして誉め讃えたい。長身で舞台映えがし、口跡も良いから、玉三郎の桜姫を相手にして、堂々として一歩も引けを取らない充実した舞台を見せた。これで後一歩、ふっくらとした色気があれば申し分なしであろう。

また、笑三郎の長浦が、気位のある局から残月との交情の後のたゆたい、一転しての世話にくだけた年増の女房のいやらしさと、年齢に似合わない達者さを見せて、観客を沸かせていた。彼の芸域の広さを観た思いである。

今回の上演は、郡司正勝氏の補綴になる台本に基本的によったうえで、奈河彰輔氏の新たな補綴も加わっているとのこと。上の巻が昼の部、下の巻が夜の部、と二部に分けての上演である。以下、簡単なあらすじと見所。

上の巻
発端 江の島稚児ヶ淵の場
同性愛の僧清玄と稚児白菊丸の心中の場面。清玄は心中に気遅れして、一人取り残されてしまう。玉三郎二役の白菊丸の清楚さが際立つ。段治郎の清玄は、まだやや固い印象。白菊丸の変身を象徴するような白鷺が飛び立って浅葱幕がかぶさる。

序幕 第一場 新清水の場
寿猿の口上で、十七年の時の経過が告げられて、浅葱幕が切って落とされると、そこは壮麗な清水寺の山門前。ここは時代物の様式で、故あって出家を願う桜姫の開かない左手が清玄の祈祷によって開くと、白菊丸のかたみの香箱が出てきて、桜姫が白菊丸の生まれ変わりと分かる。因縁に慄く清玄。ここでの段治郎の清玄は匂うような高僧である。

序幕 第二場 桜谷草庵の場
上の巻の白眉をなす場。歌舞伎には珍しい官能的な濡れ場になっている。権助が一度契った相手と分かってからの玉三郎の変貌振りが見ものである。お互いに帯を解きあっての色模様は煽情的ですらある。この後、香箱を証拠に姫の不義の相手と決め付けられた清玄は、女犯の罪を着る。

二幕目第一場稲瀬川の場
非人に落とされた清玄と桜姫。ここではじめて清玄は桜姫に執着するが、権助を思う桜姫はそれを拒む。

二幕目 同川下の場
落ちた川から這い上がった清玄の前に桜姫の子供が。泣く子を桜姫をさがすよすがとしてあやす清玄の姿には胸を打たれる。

三幕目 三囲堤の場
遠く待乳山聖天を背景にした三囲神社。春雨の中、子供を連れた清玄と桜姫がそれとは知らずお互いにすれ違う詩情溢れる場面。古びた笠と蓑を着けた桜姫の姿が絵のように美しい。上の巻の最後に相応しい幕切れである。

下の巻
ここからを下の巻として、夜の部の上演である。

四幕目 第一場 三囲土手の場
上下のつなぎとして新たに設けられた場のようだが、だんまりだけで無くもがな場。

四幕目 第二場 岩淵庵室の場
夫婦として暮らしている残月と長浦は病み衰えた清玄を養っている。夫婦の諍いが笑いを誘う。だが二人は清玄を殺す。そこへやってきた桜姫は蘇生した清玄と争い、穴に落ちた清玄は出刃で死んでしまう。帰って来た権助と花道へかかると、権助の顔が半分清玄の顔と同じ痣が。前半の滑稽味が一転して、頽廃美・怪奇美溢れる。まさに南北の面目躍如の場である。また権助の痣に気が付き、自分の境遇にきっぱりと思いを定めた時、「毒喰わば」と言う玉三郎の思い入れの凄みは筆舌に尽くし難い。段治郎は清玄と権助の早替りを鮮やかに見せている。

五幕目 第一場 山の宿町の場
今回あらたに復活した場。大家となった権助の悪が描かれる。

五幕目 第二場 権助住居の場
小塚原の遊女になっている桜姫はその腕に彫っている釣鐘が風鈴に見えることから、「風鈴のお姫」と呼ばれて人気が出たが、枕元に幽霊が出るとの評判になって帰されてくる。ここでの桜姫のばくれん言葉と堂上言葉の綯い交ぜは、ぽんぽんと歯切れよく、女郎かと思えば姫、姫と思えばまた女郎と闊達自在に行き来して聞かせる。土手のお六と同様、玉三郎の独擅場である。

そこへ現われた清玄の幽霊によって、権助が親と弟の仇と知り、わが子までをも殺して、権助を誅す。そこにはいささかの無理をも感じさせない深い苦渋の表現があった。人殺しの声と板木の音で騒がしい門口を閉めて立つ桜姫の姿には、何とも言えない哀しみの影が宿っていて、これまた印象的な幕切れである。

大詰 浅草雷門の場
お家の重宝も取り戻してお家再興もなり、姫に戻ってめでたしめでたしで幕。ただし、今回は切り狂言ではないので、大切りを是非ご覧下さいとの口上がある。なお、楽日には冒頭に「澤瀉屋一門と協力して務め上げたこの七月の舞台が、多くの観客のご来場により無事千穐楽を迎えることが出来ました」との口上もあり、観客から熱い拍手があったことを付記しておきたい。

以上のような成果を上げた今回の桜姫の再演だが、これはあくまで澤瀉屋一門の若手の健闘を讃えた上で言うのだが、このような素晴らしい玉三郎の桜姫を観てしまうと、より十全の大顔合わせでの再再演を望みたくなるというものである。贅沢な望みであろうか?

また余談だが、今回の舞台では、普段古典歌舞伎に馴染みの無い澤瀉屋一門の若手に段治郎、笑三郎、春猿など優れた役者がいることを再認識したファンも多かったと思う。スーパー歌舞伎も若い人を歌舞伎に惹き付ける効果は認めるものの、このような逸材たちを長期間縛るのも考え物である。この機会に彼らにも古典歌舞伎を演じる機会をどしどし与えることを関係者に望みたい。

なお、上演形態について一言。現行の二部制興行の制約と出演する役者の負担を考慮すると、今回のように昼夜に分けての上演も止むを得ない面もあるが、これは是非とも単独の通し上演で観たいところである。大詰めは、「本日はこれ切り」で終わってこそ余韻が残るというものであろう。個人的には桜姫の世界を堪能した後に、四の切は勘弁して欲しい。

・『修禅寺物語』

岡本綺堂の新歌舞伎の傑作。しばしば上演されているようだが10年以上振りの舞台とか。全体に小粒だが、清新な印象。気位の高い桂の笑三郎と控えめな妹楓の春猿は好一対で好演。これで夜叉王の歌六にもう少し芸術家気質を思わせる深みがあれば申し分なかったが。

・『三社祭』

右近と猿弥は達者な踊りだと思うが、それ以上のものは無い。

・『川連法眼館』〜『義経千本桜』から四の切

右近がこれまた師匠猿之助譲りの達者な踊りと宙乗りを披露して、観客の喝采を浴びているが、比べるのは酷のようだが、もう一つ個性が感じられない。とくに親狐の鼓を手にしてからの愛情表現に今一歩の感がある。また狐言葉の高音も意外と聞きづらい。そう言えば、桜姫の時の役(入間悪五郎)も、本人の工夫であろうが、含み声で逆効果だった。好漢右近の一層の奮起を望む。笑也の静御前はこの人にしては上出来だと思うが、平凡。もっと古典を勉強しないと、一門の他の女形に遅れを取ることを自覚すべきだ。
平成16年6月4日、24日:『外郎売』『寺子屋』『口上』『春興鏡獅子』−市川海老蔵襲名六月大歌舞伎昼の部観劇記
・『外郎売』

歌舞伎十八番の一つだが、近年改訂されてから、しばしば上演されるようになった。小田原にある名薬を行商人が早口で売立ての口上を述べるのが見所、聞き所。しかも曾我狂言に仕立ててあるのがミソである。舞台は富士山を背景にして、お馴染みの工藤祐経、大磯の虎、化粧坂の少将、朝比奈、妹舞鶴などが並ぶ、色彩豊かな華やかなものである。短い狂言だが、歌舞伎のエッセンスが凝縮されている。

外郎売、実は曾我五郎は、病気休演の團十郎に代わって松緑が務める。まだ左近時代の彼が平成元年に国立劇場で初役で演じた時には、ちょうど変声期にかかっていて、早口の売立ても苦しそうだったが、今回は数も重ねて、爽やかな口跡と早口で聞かせた。また曾我五郎らしい強さ、きかん気さも十分であった。その初演の時に祖父二代目松緑が工藤で付き合い、心配そうに、また慈愛に満ちたまなざしであったことを思い出す。この舞台を観たらさぞや満足であろう。

段四郎の工藤の古風さ、芝雀の女形としての風格、七之助の輝かしさ、亀治郎の見得の形の美しさなど、他の役者も見所満点。襲名興行の幕開けに相応しい舞台だった。

・『寺子屋』

菅丞相の一子秀才を密かに匿っていた武部源蔵は、これが露顕して、その首を差し出すように命ぜられた。苦悩しつつ家に戻った源蔵は、ちょうど新しく寺入りした小太郎が容姿すぐれているのを幸いに、身代わりにして首を打つ。検分役として来た松王丸は、間違いなく秀才の首だと言う。ほっとする源蔵・戸浪夫婦のもとへ現われた小太郎の母千代は、意外なことを告げる。さらにそこへ松王丸も現われて、忠義のために我が子を身代わりに差し出したことが明らかになる。

忠義と夫婦・親子の情愛の交錯と相克を主題にした悲劇。仁左衛門が押し出し・口跡ともニンにあった立派な松王丸。一つ一つの所作・見得が理に適っている。前半の首実検の件は、やや内心の苦悩が見え過ぎたきらいはあるものの、小太郎が笑って首を打たれたと聞き、思わず絶句、空笑いから泣き笑いするところは泣かせる。

玉三郎の千代は、忠義のためには我が子を身代わりにすることは頭では分かっていても、思わず我が子を思う本音をもらしてかき口説き、泣く姿は、母親の強さと弱さを同時に見せて、その哀れさには胸打たれる。だが、ここでは今回も省略されている寺入りという最初に小太郎を連れて来て、むずかる子供を置いておく場面があった方がより悲劇性は際立ったと思う。勘九郎の源蔵は、小太郎を身代わりにするまでの苦悩に彼の真骨頂を見た思いである。福助の戸浪は、源蔵に寄り添う良い女房振り。

・『口上』

歌舞伎の襲名口上には、一種独特の華やぎがある。襲名とは言うまでもなく、「名を襲ぐ」こと。代々続く名跡をあらたに襲ぐことによって、その役者はまったく新しい役者に生まれ変わる。襲名によって、その藝が大きく飛躍する例にいとまが無いのは、不思議なことである。

海老蔵は代々の團十郎も前名として名乗っていたことも多い、市川宗家にとって大事な名跡。それだけに口上も錚々たる十八名の幹部が打ち揃い、圧巻。祖父十一代目團十郎とのつながりから新海老蔵までの三代にわたる付き合いを述べる役者も多かった。また、新海老蔵に寄せる期待が並々ではないことも窺わせた。彼にとってもプレッシャーにはなろうが、それもまた一つの励みにして、なお一層飛躍をしてくれるであろうことを期待させる逸材であると思う。

病気のため父團十郎がこの口上の席に同座していないのはまことに残念だが、親戚を代表して雀右衛門、そして父親代わりの立場で玉三郎、と立女形二人に挟まれた海老蔵は、あたかも大叔母、叔母に囲まれていたようで微笑ましかった。

市川家襲名の恒例である「にらみ」は、さすがと思わせる立派なもので、そのかっと見開いたまなこでにらまれたら、邪気退散間違い無しであろう。

・『春興鏡獅子』

『京鹿子娘道成寺』と並ぶ女形舞踊の大曲。前ジテで女小姓の可憐な踊りを、後ジテでは獅子の精となって勇壮な毛振りを踊り分けなければいけないから、難曲である。

海老蔵はこれも以前踊ったようだが、既に立役としての道を歩みつつあるから、襲名狂言に取り上げたのは、相当勇気が入ったものだと思うし、観る側にも懸念があった。

結論から言えば、半ば成功し、半ば期待外れであった。やはり前ジテの弥生は、決まり決まりの形は女らしい可憐さは見えるが、体が立役だから動きが硬く、ぎこちなさが残る。その分獅子の精となってからは、制約から解き放たれたように豪快に毛を振っていて、爽快感を味あわせてくれた。
平成16年6月1日(初日)、8日、22日、23日:『助六由縁江戸桜』−市川海老蔵襲名六月大歌舞伎夜の部観劇
十一代目海老蔵襲名興行の二か月目は、いよいよ歌舞伎十八番中もっとも人気のある『助六由縁江戸桜』(通称『助六』)を取り上げた。言うまでもなく江戸歌舞伎を代表する市川宗家にとっては、大事な演目。祖父十一代目團十郎も、海老蔵時代にその名を上げた記念すべき演目。勿論團十郎襲名の時も、実に二か月に渡り豪華な共演陣を得ての舞台で話題をさらった。新之助が海老蔵を襲名するということは、いずれ團十郎を襲ぐことが約束されたということである。そういう意味でもこの『助六』は注目の的であった。

海老蔵は先年はじめて助六を演じて絶賛されたが、残念ながらその時には未見だった。だからなおさら今回の舞台は期待十分であった。

話をかいつまんで要約すると、助六という若者は、廓一の花魁揚巻の恋人で、花の吉原を毎日闊歩して、喧嘩を吹っかけてばかりいる。だがこの助六、実は曾我五郎で、源氏の重宝友切丸を詮議するために、喧嘩をしていたのである。権力と金の威光を笠に着た髭の意休と揚巻を張り合い、やがて意休が持っていた刀がその探し求めていた刀と分かり、その後を追う。

現行の舞台でも三浦屋格子前の一場のみでおおよそ二時間、最近は省略される水入りを入れればもっと長くなるが、こう書いただけではこの助六という狂言の面白さは全く分からないであろう。

何よりもまず助六が格好良く、また気風も良く、女にもてる、男の中の男−男伊達で、当時の江戸庶民の羨望の的であった。しかも、その恋人揚巻には立女形が扮し、花魁道中や豪華な衣裳でその美しさを際立たせる。そして、敵役、和事の立役、老女役など歌舞伎の全ての役が登場する。まさに歌舞伎の美しさ・面白さがこの一場に凝縮された舞台である。

若干余談だが、この狂言には悪態と当時の商品の宣伝が多くあるのは面白いことである。これだけ思い切り悪態を言いたい放題に言ってくれれば、聞いている方は胸がすく。また、舞台のあちらこちらに今で言うCMが出て来るが、これは宣伝効果抜群であったと思う。今回も海老蔵を起用している飲料メーカーの商品が舞台に登場して、やんやの喝采であった。これもお遊びだが、楽しい。

さて今度の舞台は結論を先取りして言えば、かってない新しい助六の出現であり、彼の代表的な舞台として、後世に永く伝えられるべきものと考える。歌舞伎の世界では、これは一つの事件と言ってもいいであろう。

では何故、どこが新しいのか?

・ 等身大の若々しい助六の出現

花道に颯爽と現われた海老蔵の助六を見て、写真で想像していた以上に祖父十一代目團十郎に似ているのにまず驚いた。そして、出端の藝と言われ、「踊る」のではなく「語る」と言われるところでは、一つ一つが綺麗に決まっており、その姿・形の美しさに惚れ惚れした。

しかし、これで驚いてはいけなかった。本舞台に来てからの演技はどうだ!いかにも自然体で、言ってみれば奔馬の如く天衣無縫!とても演技とは思えない。勿論まだ科白も荒削りで、時々不安定になる部分もたしかにある。だが、それを吹き飛ばすような、朗々たる口跡の良さ!しかもメリハリも利いているうえ、繊細さもある。既存の助六像を一挙に打ち壊す新しい助六の造形である。それはいかにもこのような若者が吉原を闊歩していたと思わせるような等身大の、若々しい助六の出現である。あたかも助六=海老蔵の如き錯覚を覚える。

歌舞伎役者は、声・顔・姿が必要と言われる。ましてや助六にはそれが求められるが、海老蔵の助六にはその全てが備わっており、かつ軽やかである。今まで座長クラスの立役が演じる助六は、どうしてもいささか重々しい感が否めなかったから、こんな助六はかって経験したことがなかった。だから、評価する人によっては毀誉褒貶相半ばする可能性もあるであろう。だが、断然この助六を支持する。これこそ新しく、またそれだからこそ江戸歌舞伎の原点に立ち返った助六と賞賛したい。

・ 今望みうる最高の完璧な揚巻

今回海老蔵の助六に配する恋人揚巻は、やはり今を盛りの立女形坂東玉三郎の初共演である。これまた、事前の予想をはるかに越えた、言わば大輪の花を咲かせた艶やかさ・美しさの揚巻である。過去二回観た時の印象はどこへやら、今回は吉原一の太夫の大きさ・存在感には圧倒された。

花道の花魁道中の酔態振りの色っぽさ、そして、意休への悪態に見せる意地と張り。後半になって紙衣姿の助六を庇う時に垣間見せる母性、どれを取っても今望みうる最高の揚巻であり、豪華な衣裳も映えて、これほどまで完璧な美しさで演じられた揚巻も皆無であろう。

考えてみれば、二時間の舞台の半分近くが揚巻が中心である。その揚巻に心底惚れ抜かれた助六はさぞやいい男と思わせての登場だから、揚巻の美しさがあってこそ引き立つというものである。揚巻あっての助六であることを再認識させる玉三郎の素晴らしさであった。

・ 豪華な共演陣

助六を観る楽しみの一つに豪華な共演陣が上げられる。とくに今回はめでたい襲名興行、勘九郎の柔らか味、左團次の大きさ、吉右衛門の洒脱さ、田之助の母親の愛、松緑の爽やかさなど数え上げたら切りがない。ここではこの人を置いて他にないとも言うべき松助の通人を上げるに止める

後の二つの出し物はごく簡単に書くに止める。

・『傾城反魂香』−将監閑居の場

言葉が吃る又平は、絵においても弟弟子に遅れを取り、師匠に名を許してもらえるよう女房のおとくから頼むが断られて絶望し、死ぬ間際に手水鉢に絵を書く。それが絵の力で反対側に通り抜けるという奇蹟を起こす。無事名を許されて、おとくと喜び合う又平。

これもしばしば上演されるものだが、今回は吉右衛門の又平と雀右衛門の二人が息もぴったりの夫婦愛を見せて、ほろっとさせる。吉右衛門は前半の言葉が吃って思うにまかせないところと、後半の絵が抜けてからの大きな変貌振りの対比は鮮やかである。また、雀右衛門の世話女房振りは、やはりこの立女形の懐の深さを見せて光る。衣服を改めておとくの打つ鼓にあわせて大頭の舞を舞う又平には思わず拍手をしたくなるようなうまさ、楽しさがあった。

・『吉野山』

もう言うまでも無い舞踊の名曲。今回は最近とみに美しさをましている若手女形の菊之助が初役で静御前を踊る。これも祖父梅幸が得意にしていたが、今回の菊之助は繊細で、また美しい。菊五郎の忠信の要所要所をきっちりと押さえた踊りと相俟って、見事な舞台に仕上っていたと思う。権十郎の藤太も愛嬌十分である。
平成16年4月20日:『白浪五人男』(『青砥稿花紅彩画』)−四月大歌舞伎夜の部観劇記
有名な「浜松屋」と「稲瀬川」の場はたびたび上演されるものの、通し狂言での舞台は七年振りとか。前回とほぼ同じ顔振れで上演されたのは、通し狂言大賛成派としては大変嬉しいことであった。この白浪作者河竹黙阿弥の世話物の傑作は、やはり通しで観てこそその本当の面白さが分かるというもの。しかも、今回は五人男に二月の『三人吉三』に続いての大顔合わせ、勘九郎の弁天小僧、三津五郎の南郷力丸、仁左衛門の日本駄右衛門など今この人たちをおいては他にはいない、というほどの役者揃いである。これでは面白くないはずがない。

加えて、通し上演にしたことにより、登場人物たちの関係がより明確になり、話がさらに分かりやすくなった。もともと話はかなりご都合主義で、うまく出来すぎていることばかりだが、通しで観ると、それを感じさせないのは、テンポの早さと陽と陰の場面がうまく組み合わされているからであろう。

序幕 第一場初瀬寺花見の場
ここは『新薄雪物語』の書き替えのようで、歌舞伎美溢れる初瀬寺の山門前。狂言全体は世話物だが、ここでは時代物の形。小山家の息女千寿姫が家名断絶した許婚小山小太郎の行方を案じているところへ、駒平という奴が若侍を連れて来る。これが実は弁天小僧菊之助の化けた姿。そうとは知らぬ千寿姫は、小太郎をかき口説き、首尾よく二人でお茶屋に。悪の家来たちがお茶屋に飛び込んだところ、現われた忠信利平に危うく救われて難を逃れた姫は、胡蝶の香合を持って一緒に連れて逃げて欲しいと小太郎に頼む。一旦は躊躇した小太郎だったが、駒平のとりなしで姫を連れて去ってゆく。

忠信利平は、悪の家来たちに難癖をつけて奪った百両にほくそ笑んでいるところへ、奴駒平実は南郷力丸がその金を奪おうと正体を表わして、立ち回りとなる。脇筋として、赤星十三郎が主家のために百両を盗んで、家来たちに取り返される話がある。

勘九郎がおっとりとして匂うような若侍。加えて七之助の千寿姫がいかにも純で一途なお姫様。三津五郎の奴駒平も過不足ない役作り。

第二場 神輿ヶ嶽の場
屋敷に連れ帰ると言いながら寂しい山中に入ったことに不審を抱いた千寿姫に、小太郎は実は盗賊弁天小僧菊之助が化けた姿だと明かす。小太郎が死んだと聞かされ、菊之助に言い寄られた千寿姫は絶望して、谷に身を投げる。勘九郎の若侍から一転して盗賊に変わる演技が鮮やかである。また、千寿姫に迫る男の色気も十分ある。

そこへ仁左衛門扮する日本駄右衛門が背後から現われて、香合の取り合いになり、勝負に負けた菊之助は駄右衛門の子分になる。仁左衛門が端から大きい盗賊の頭領振りである。

第三場 稲瀬川谷間の場
谷底で気が付いた千寿姫のところへ赤星十三郎が身を投げようとやって来る。お互いの身の上を嘆き、姫は自ら川へ身を投げる。その後を追おうとした十三郎を今度は忠信利平が助け、日本駄右衛門の手下であることを明かすと、自分も手下になることを決心する。

そこへ駄右衛門、菊之助、力丸が暗闇から現われ、だんまりとなる。歌舞伎独特の演出であるだんまりは、闇の中で探り合うところをスローモーションで見せるが、絵にならなければ面白くない。今回の五人のだんまりは十分絵になっていて、見所があった。

第二幕目 第一場雪の下浜松屋の場
ここは弁天小僧の科白であまりにも有名な浜松屋の場。武家娘に女装した菊之助が力丸が組んで、万引きと見せかけて、逆に百両を強請とろうとする見せ場。勘九郎の前半の武家娘振りもなかなかのものだが、やはり一番の眼目は玉島逸当なる武士に女と見現されてからの居直りのところ。まずその伝法な科白と粋。悪党だが、いかにも颯爽としていて、小気味良い。

そして、百両の強請には失敗したものの、二十両をせしめてもまだ帰ろうとしない菊之助を力丸が宥めて、花道を引き上げる二人の掛け合いの面白さ。突っ込みと受けの息もぴったりの二人に観客は喜ぶ。

実はこの場のみで終わると、この強請場の本当の仕掛けが分からないのだが、今回は幸い次の第二場が出る。

第二場 雪の下蔵前の場
主と息子が今日のお礼と逸当をもてなしていたら、実は逸当はすなわち日本駄右衛門の化けた姿。先ほどの強請も、実は浜松屋の蔵の金をごっそり盗ろうと仕組んだ芝居であったことが分かる。ところが、ひょんなことから、浜松屋の息子は日本駄右衛門の実の息子、菊之助は浜松屋の実の息子で、十七年前に取り違えた子供だったのである。思わぬ二組の親子の対面は出来すぎの感すらあるが、そこは黙阿弥得意の因果話だから、何となく納得してしまう説得性がある。また、役者がそこをうまくカバーしているから、少しほろっとする。

第三場 稲瀬川勢揃いの場
ここも有名な場面。歌舞伎の絵面の美しさを存分に発揮したところ。追っ手を逃れて稲瀬川の土手までやってきた五人に捕手を囲む。花道と本舞台での五人それぞれの七五調の科白を堪能すればこれぞまさに歌舞伎の醍醐味。

大詰め第一場 極楽寺屋根立腹の場
第二場 極楽寺山門の場
第三場 滑川土橋の場
逃れる菊之助を大屋根まで追い詰めた捕手と菊之助の息詰まる大立ち回り。大勢の捕手に今は最後と菊之助は自ら腹に刀を突き立てる。

大屋根が徐々に背後に倒れて行き、今度は山門がせり上がってくる。いわゆるがんどう返しである。ここは大道具の見せ場である。山門上には駄右衛門。衣裳から科白まで『楼門五三桐』の石川五右衛門のもじりである。仁左衛門の五右衛門も観たようで得をした気分になる大きな盗賊振りである。

そこへさらに土橋がせり上がり、勘九郎二役の青砥藤綱とのお約束の科白があって、「絵面」の見得で幕。

うち出しは八時二十分といつもより一時間も早いが、たっぷりと歌舞伎の面白さを味わえたから、恐らく多くの観客は十分満足して帰途についたと思う。今回の上演を見ても、やはり見取りより通しの方が観客は筋もよく分かり、真の歌舞伎の面白さを味わえるのではないか?今後もこのような企画を続けて欲しいものである。
平成16年3月21日(千穐楽):『日高川入相花王』『紀州道成寺』−南座坂東玉三郎特別舞踊公演
いずれも珍しい道成寺ものの舞踊公演。玉三郎の立女形としての責任と道成寺ものにかける情熱を窺わせる意欲的なプログラムである。昨12月の南座『京鹿子娘道成寺』、初春の『京鹿子娘二人道成寺』と続いた舞台の総仕上げの感もある。

・『日高川入相花王』
安珍・清姫伝説のしたがって、恋人とともに逃げ去った安珍を追いかけて日高川を渡ろうとする清姫の話を全編人形振りで演じる。玉三郎の人形振りは夙に定評のあるところだが、今回はとくにその感を深くした。三浦雅士氏だったと思うが、「玉三郎の人形振りは、人間が演じる人形が、人間そのものになっている」とどこかで書いていた記憶があるが、まさしくその通りで舞台に出てきた清姫は、顔の化粧から振りまで人形そのもの!だが、七之助演じる人形遣いに操られて踊る人形振りは、ギクシャクした動きがかえって恋に狂う清姫の哀しさ・憐れさを感じさせる。それにしても顔の表情を一切変えずに人形振りで踊るのだから、高い技量が必要であるが、これを公演期間中続けるのは並大抵の集中力では出来ないと感服した。渡船を頼む清姫を拒む船頭(坂東弥十郎)も同じく人形振りだが、こちらはどこか飄けていて、ユーモラス。

ついに嫉妬に狂った清姫は、怒りの形相で髪を振り乱して、日高川に人形遣いもろともに飛び込む。その直前に一瞬怒りから鬼女・蛇体に変わるところは顔の下部に鬼面の半分をつけて、その凄まじさを表わす。

場面は変わって、浅葱幕をうまく使い、清姫が川を泳ぎ渡るところを見せる。しかも鬼面をつけたり、はずしたりして、清姫と蛇体を交互に見せる工夫もある。さらに蛇体は、後ろに長崎くんちにヒントを得たと思われる蛇踊りもあるから、見所十分である。

川を泳ぎきって、対岸に辿り着いた清姫が、木にからみついたところで、背後が切って落とされ、一瞬のうちに明るく華やかになった舞台での見得で幕。

・『紀州道成寺』
これは、『京鹿子娘道成寺』と同様、後日譚。しかし、ある意味では華やかな『日高川入相花王』とは対照的にかなり地味な舞踊。能から取ったところは共通しているが、能に近いからであろうか、松羽目である。今回は玉三郎の意向が反映しているようで、通常の松羽目とは異なりくすんだ渋めのものに、紫の鐘という舞台。

道成寺の住僧と能力が現われて、今日再興した鐘供養があると語る。そこへ花道から白拍子の出。橋掛かりを模している。しかし、すぐには動かず、ゆっくりと本舞台へ。まことに息が長い。また顔も能面のように冷たいものを思わせる。僧とのやりとりの後、烏帽子をつけて、奉納の舞を舞う。ここは「乱拍子」という小鼓にあわせたこれまた非常に息の長い舞。新しい田中傅左衛門の掛け声が舞台によく通る。観る者もじっと息を詰めて集中するところである。一転して急の舞から、一気に鐘入りとなる。

慌てた僧たちは鐘にまつわる話を踊りで見せる。やがて祈祷により上がった鐘の中から蛇体が現われる。鬼面を思わせる隈取の後ジテである。何とか鐘への恨みを晴らそうとするが、僧の祈りに負けて花道を引っ込んでゆく。その後姿には思いを遂げられなかった清姫の深い哀しみが感じられた。玉三郎が筋書きで語っているように、本来の舞台なら考え難い地味な終わりであって、『日高川入相花王』と上演の順序を逆転させてもいいであろう。そこをあえてこの順番にしたのは、やはり道成寺ものの話のすじを通すとともに、その主題に清姫の叶わぬ恋の哀しみを見たからではないだろうか?

人形振りと能がかりという、普通とは異なった二つの舞踊を殆ど初演に近い舞台で見せてくれた今回のこの舞踊公演は、きわめて水準の高いものであった。これは前月のお嬢吉三、茨木童子と立て続けに新しい役に挑戦してきた玉三郎のまた一つの大きな成果である。
平成16年2月21日、25日(千穐楽):『三人吉三巴白浪』−二月大歌舞伎夜の部観劇記
二月の歌舞伎座の演目の発表があった際、その意外性に驚くとともに不安と期待が相半ばした。夜の部の狂言は有名な河竹黙阿弥の『三人吉三巴白浪』の通し上演だから大歓迎なのだが、主役のお嬢吉三を坂東玉三郎が演じるというのだ。その類まれなる美しさと透明な藝風により、六代目歌右衛門亡き後、立女形としての確固たる地位を占めつつある玉三郎が女装の盗賊を初役で演じると言うから驚いたのである。

「月も朧に白魚の…」という人口に膾炙した名科白で有名な「大川端庚申塚の場」はしばしば上演されるが、通し狂言での舞台は数年振り。しかも、その通しもお嬢吉三は殆ど菊五郎が演じてきた。菊五郎も今では立役も女形も両方演じるいわゆる兼ねる役者だから、真女形の玉三郎が一体どう演じるのか?と興味津々であった。近年の玉三郎は、阿古屋、八橋、政岡など女形の大役を次々に演じてきて、歌右衛門の跡を継ぐ真女形と認められてきた。だから、彼が歌右衛門すら演じたことのないお嬢吉三を演じるというのは、想像だにしなかった。正直のところ不安の方が大きかったのも事実であった。

しかし、和尚吉三を團十郎、お坊吉三を仁左衛門というかって海老・玉、孝・玉コンビで鳴らした三人が一同に会する大顔合わせの舞台、滅多に観られないものと期待も大きかった。

資料によれば、作者の河竹黙阿弥はこのお嬢を当時人気の美貌女形岩井粂三郎、後の八代目岩井半四郎に当て嵌めて書いたという。立役を殆ど演じたことのない女形を真女形というが、まさしく玉三郎もそれに当てはまる。そういう意味では彼が演じるのは黙阿弥の意図通りなのだが、何しろ真女形として学ぶべき先人の藝が少ないのだから、その役作りの困難さは我々の想像を越えて余りある。ではその舞台は実際どうだったのか?

序幕 第一場 両国橋西河岸の場
通し狂言として、最初にこの場が出るのがいい。短い場だが、十三郎(翫雀)が百両を落として、それを相方となった辻君おとせが拾うという因果噺の発端がよく分かる。また川に身投げをしようとした十三郎を助けた土左衛門伝吉(左團次)、十三郎、おとせの因縁も暗示されている。

序幕 第二場 大川端庚申塚の場
単独でしばしば上演される有名な場。花道からおとせ(七之助)を追って黒の振袖の美しい町娘姿のお嬢吉三が登場する。言葉巧みにおとせに近ずいたお嬢は、おとせの懐にある百両を奪い取って、男の本性を現す。おとせを川に突き落としてから、見せ場・聞かせどころの「月も朧に白魚の…」がはじまる。兼ねる役者のお嬢は地声になる。勿論玉三郎のお嬢もここでは地声だが、あまり野太くなく女形の雰囲気を残しているのは、お七と名付けられ女として育てられ、さらに拐されて旅芝居の女形として育てられたことを考えあわせれば相応しい解釈だ。普段聞き慣れた七五調とは一味違っているが、科白も流麗で耳に心地よい。また、「ほんに今夜は節分か」の前に「ああ」と声を発する。これははじめて聞いたから、玉三郎の工夫か?たしかに年中行事の節分を季節感に敏感な町方の者が知らないはずは無く、つまりはそれだけこのお嬢は盗賊として荒んだ生活を送っていることが明らかになるのだ。これに見ても新しいお嬢の造形が分かる。元々男である女形が、女装しているが実は男であるという性の倒錯があるのだから、このお嬢はやはり男とも女ともつかない雰囲気が必要であろう。玉三郎のお嬢は、それを見事に表現している。

奪った百両を持って立ち去ろうとしたお嬢を駕籠の中から呼び止めるお坊吉三(仁左衛門)。これもまた御家人崩れの頽廃の雰囲気を色濃く匂わせるお坊で、科白術も巧みである。百両をめぐって二人の立ち回りの中に止めに入る和尚吉三(團十郎)。この役を得意とする團十郎が揃っての三人の見得は、これ以上望みようも無い歌舞伎の醍醐味である。またそれからの血盃を交わしての義兄弟の契りを結ぶところは、三人の息もぴったりあって気持ちよい。結局百両は和尚の手に渡る。

なお、おとせをここでは七之助が演じているのが好ましい。大川端のみの上演の時は、脇役が演じることが多く、あまり重要視されないが、実はこの因果噺の要となる重要な役どころ。七之助は実年齢に近い、このけなげな娘を真正面からきっちりと演じていた。

第二幕 第一場 割下水伝吉内の場
本所割下水にある伝吉の夜鷹宿。些細なことから二人の辻君が諍いをはじめ、別の一人が止めに入る。ここは茶利場と言われる前の場の完全なパロディーなのだが、手練れの脇役三人(升寿、京蔵、守若)の巧みさに場内が沸く。

伝吉が案じていたおとせが八百屋久兵衛に助けられて、戻って来る。伝吉と久兵衛はそれぞれお互いの息子と娘を助けたことになるが、話をしているうちに十三郎は伝吉が捨てた実の子で、おとせと双子であることが分かる。さらにおとせの兄の和尚吉三が百両を持ってくることから、伝吉の複雑な過去が次第に明らかになる。好々爺の伝吉の秘めた過去を左團次は体全体で表現していて、観るものを納得させる。この場で百両が和尚から伝吉、さらに現われた武兵衛へと目まぐるしく渡る。

第二幕 第二場 本所お竹蔵の場
百両を持って逃げた武兵衛から、今度はお坊が金を奪う。それを物陰から見ていた伝吉が取り返そうとして争いになり、お坊に斬られる。左團次が過去の悪の凄みを見せるところだが、やや弱い印象。花道に引っ込む仁左衛門の方に悪のニヒルさが良く出ていた。

第三幕 第一場 巣鴨吉祥院本堂の場 第二場 同裏手墓地の場 第三場 元の本堂
実はこの三人吉三は八百屋お七の世界で、お嬢がお七、お坊が吉三郎(ひょっとして和尚も)の見立てである。だがその構造が明らかになるのは、この吉祥院の場だ。だから、舞台装置も同じ。しかし、こちらは荒寺のような作り。やはりこの狂言の頽廃の世界を表わしているのかもしれない。お坊もお上に追われて、和尚が所化をしていたこの吉祥院に逃げ込んでくる。兄を訪ねてきたおとせと十三郎の話から、伝吉を殺したのが自分と和尚に気付かれたことが分かり、言い訳できないと悟って自害を決意する。そこへ何処からかお坊に声がかかる。欄間の天女の彫り物のところにお嬢が隠れていたのである。この場面の玉三郎が美しい。ここからが二人の濃密なからみ。思わず駆け寄って、「逢いたかった」と言う。お嬢とお坊は同性愛という説があるようだが、玉三郎と仁左衛門の二人にかかると、そうも見えるしまた恋人同士にも見える。二人の作り出す世界は、一瞬にして荒寺を極彩色に変える。やはり玉三郎のお嬢には両性具有の妖しさがある。二人はともに死のうと、遺書を書く所で舞台は回る。

裏手墓地でおとせと十三郎を殺めようとする和尚。陰惨な殺しの場面だが、二人に殺しの本当に理由を教えないのが救いなのか、無残なのか?

また舞台は回って元の本堂へ戻る。自害しようとしていた二人を止めに入って来る和尚の両腕にはおとせと十三郎の首が…。和尚は近親相姦という畜生道に堕ちた二人を身代わりにするからとお嬢とお坊を逃がす。

大詰 本郷火の見櫓の場
両花道を使ってのお嬢とお坊の出。もう逃げられない状況に追い詰められた二人の姿には、盗賊であってももう観客はすっかり感情移入しているから、何とか無事逃げ延びて欲しいと思わせる。捕まった和尚を助けようと閉まっている木戸を開けるため、櫓の太鼓を激しく打ち鳴らすお嬢。追いすがる追っ手。降りしきる雪の中の二人の立ち回りは、舞台をも回していつに無く激しく、観客をハラハラさせ興奮させる。

今回の通し狂言を観て、改めて黙阿弥の台本の巧みさとその描く悪の世界の豊饒さを再認識した。これを幕末の頽廃と言って片付けるのは簡単だが、我々を常に惹き付けて止まないものがあるのは何故だろうか?人間に潜む悪への憧れなのだろうか?それとも人間の本性が描かれているからなのか?

いずれにしても、この通し狂言を大成功させたのは、まずもって玉三郎のお嬢の真女形としての新鮮な役作りにあろう。また、仁左衛門の悪の美しさ、團十郎の大きさも相俟って稀に見る素晴しい名舞台に仕上がった。今後三人吉三を語る時にこの舞台を外すことは出来ないであろう。

(追記 大川端庚申塚の場で、玉三郎が「ああ」と発したのをご本人の工夫か?と書いたが、梅幸などの例がある旨ご指摘があったので、訂正させていただく)

後に踊りが二本。時蔵の『仮初の傾城』と三津五郎の『お祭』。三津五郎のいなせな鳶頭が、若い衆や獅子をからませながら、小気味良く踊る。いつ観てもこの人の踊りは、爽やかで鮮やか。今月の舞台がこれ一つとは贅沢だ。
平成16年2月21日:『毛谷村』『茨木』−二月大歌舞伎昼の部観劇記
・『毛谷村』−『彦山権現誓助剱』

この狂言もまたかと思うほどだが、今回は吉右衛門の六助、時蔵のお園の顔合わせで、見所一杯の楽しい舞台となった。

何よりも吉右衛門の六助がいい。前半は立合いにわざと負けてやり、その相手に眉間を扇でうたれても恨みにも思わず、また助けた子供の相手をして遊んでやるなど、愛嬌たっぷりにお人好しの六助を見せる。観る者をほのぼのさせる六助である。

他方、時蔵のお園はいわゆる女武道。男勝りの力と剣の強さを持つ。六助を親の仇と思い、虚無僧姿のままいきなり斬りかかるが、六助が語った子供を助けた経緯を聞くなり、急にへなへなとなり、恥ずかしそうに自分はおまえの女房だと言う。それからは、女武道の強さはどこへやら、姉さんかぶりもいそいそと六助の世話を焼く若女房振りを見せる。その対照の鮮やかさは、思わず微笑む初々しさである。時蔵のお園の見せ場である。

立合いに負けてやった相手が、実はお園の父で、六助の剣術の師の仇と知ってからは、六助が本来の剣の達人の本性を見せる。その怒りを岩を踏み潰すことで現すところと、台詞回しはさすがと思わせる乗りで、観客をうならせる。吉右衛門の台詞のうまさにはいつもながら惚れ惚れする

衣服を改めた六助が再度立合いをするために出かけるところで幕。鶯の声や花椿など季節感溢れる爽やかな舞台だった。

・『茨木』−新古典劇十種の内

有名な渡辺綱の鬼退治の後日譚。『戻橋』と物語的にはつながっているが、細部には若干の違いがある。また、能から取ったものではないが、松羽目を背景にして能がかりで演じられる。

安倍晴明の勧めで物忌みをしている渡辺綱の屋敷に、老女が訪ねてくる。綱の伯母真柴と名乗る。この老女、実は綱に片腕を斬られた鬼女茨木童子が化けた姿、奪われた片腕を取り返しに来たのである。すっぽんではなく揚幕からの出だが、音も無く突如現われる。いつもは成熟した美しさを見せる玉三郎が、ここでは別人のような老女の作りで登場、観客からは驚きの声があがる。ここでは、持っている杖をこ鬼の角のように見せるという口伝があるようだが、うまい工夫であり、今回もよくその雰囲気が出ていた。

花道から本舞台にかかり、物忌みを理由に対面を断られると、綱の子供時代を懐かしむように語りながら、踊る。いわゆるくどきである。左腕が無いので右腕のみで踊るのだが、その不自由さを感じさせないし、言われなければ気が付かない自然さがある。一旦断られて花道を戻るが、憐れに思った綱に呼び戻されて出てくるところは、嬉々とした感じがよく出ていた。

本舞台に戻ってからは、綱の所望で真柴の舞になる。地味だが見事な舞である。今度は綱の鬼退治の物語になる。この間、真柴の関心は、常に片腕の入った唐櫃に向けられる。ついに片腕を見た真柴の顔が一瞬のうちに鬼女に変わるところが、最大の見もの。まったく驚くような表情の変わり様である。片腕を奪った鬼女は逃げ去り、綱はその後を追う。

後半は、能で言う後ジテ。隈取の茨木童子に変わって、綱との立ち回りの後、片腕を手にして、幕外で六方を踏んで飛び去ってゆく。

全体としては動きも少なく難しい踊りであり、さすがの踊りの名手玉三郎もまだ完全に手の内に入ったものにはなっていないようだったが、再演でさらに磨きがかかることが期待できる出来だった。

團十郎の渡辺綱も初演とは思えない大きさがあり、最近の充実振りを目のあたりに出来た役作りであった。

・『良弁杉由来』

奈良時代の高僧良弁が鷲にさらわれて、杉の木におかれていたのを助けられたという伝説に由来しているもの。今回は「二月堂」のみでなく、鷲にさらわれる「志賀の里」、狂気の母親を描く「桜の宮物狂い」の場も続けて出る。しかし、全編のクライマックスはやはり「二月堂」の場。舞台装置が二月堂の大伽藍を壮麗に見せていて見事。仁左衛門が匂うような高僧振り。対する鴈治郎は正気を取り戻したものの、乞食と見紛うばかりの汚れ役。この二人の親子対面は感動的である。だが、その後がやや世話にくだけてやや興醒め。これは本そのものが歌舞伎にしては親子の対面のみで、単純過ぎる故か。

もう一本、『市原のだんまり』が最初に出たが、だんまりが歌舞伎演出の一つの手法とは言え、何故このようなものが出るのか理解に苦しむ。演じる役者も気の毒である。
平成16年1月25日:『浮世柄比翼稲妻』『戻橋』−国立劇場初春歌舞伎観劇記
・『浮世柄比翼稲妻』
鶴屋南北のこの作品、名のみ有名だが、意外に上演の機会に恵まれていない。恐らく南北得意の綯い交ぜの手法で書かれているので、いささか現代の観客には分かり難いことが原因のようだ。江戸時代のように一日がかりで上演されたものであれば、このような手法も変化に富んでいて面白いだろうが、せわしない現代人にはそぐわないし、また興行上もとても無理であろう。そういう点では通し上演もなかなか一筋縄ではいかない難しさがある。現によく通し上演を行う国立劇場でも、約10年振りのようである。

今回は、もう一つの筋である「権八・小紫」の部分をばっさりと切り捨てて、山三と不破の対立に絞っている。一つの見識であり、また結果としては分かりやすい舞台に仕上がっていて、まずは成功と言えるであろう。

序幕「鎌倉初瀬寺の場」
ここは発端。歌舞伎お馴染みの花一杯の華やかな初瀬寺山門の前。佐々木家の跡目争いを背景にして、腰元岩橋ををめぐっての山三と不破の恋の鞘当から主家の追放まで。さらには宝物の紛失やら敵討ちの話まで絡む。

三津五郎の山三には、美男で名高い山三はかくあろうかと思わせる柔らか味のある雰囲気が漂っている。対する橋之助の不破伴左衛門は、役者絵から抜け出したような古風な顔と容姿でまことに大きく、好一対。福助扮する腰元岩橋はやや軽すぎる印象、段四郎の又平が板に付いた小悪党振りである。

二幕目 浅草鳥越山三浪宅の場
幕が開くと、いかにもうらぶれた長屋にその日の米も欠くような貧乏暮らしにもかかわらず、山三が、悠然と花魁葛城となった岩橋からの手紙を読んでいる。掛取りに商人が押しかけても、まったく動じない。雨漏りがしても、盥を吊ってその下に平気でで座っている。さらには、ここへ葛城が花魁道中をして来る。実際にはありえない話だが、妙にリアルであるし、可笑しみもある。ここでも三津五郎がいかにもおおらかな山三を見せていて、楽しめる。福助は葛城と下女お国の二役。葛城は花魁の格を、お国は山三を思うひたむきさをよく出している。また幸右衛門の家主が達者。

大詰 吉原仲之町の場−伊勢競曲輪鞘当
ここは「鞘当」として、よく単独上演される場。これまたお馴染みの桜一杯の吉原仲之町。両花道から深編笠を被った二人の武士が登場し、舞台ですれ違いざま鞘を当てる。お互いに山三と不破と認めて、立ち回りとなる。そこへ茶屋女房が留めに入り、二人は刃を納めて幕。御所五郎蔵に比べるとやや舞台が淋しいが、歌舞伎の様式的な美しさを味わうのには絶好の場。最後の三人の見得はまるで一幅の絵。

・『戻橋』
渡辺綱が一条戻橋で娘小百合に化けた鬼女に出会い、その片腕を切り落としたという有名な話を舞踊化したもの。

芝翫の娘小百合は、どう見ても若い娘には見えないのが難点だが、そこは藝の力で補っていて、巧みな舞での翻弄振りはさすがであるし、鬼の正体を見顕してからの変貌は鮮やかである。橋之助の綱も先程の不破とはまた違った大きさがある。

屋根上での大立ち回りから、腕を切り落とすまでの場面は、今時珍しい古径な味であった。

二月の歌舞伎座昼の部は、この後日談とも言うべき『茨木』。老女である伯母真柴に化けて、腕を取り戻しに来る鬼女を玉三郎がどう演じるかが見ものである。
平成16年1月23日:『山科閑居』『京鹿子娘二人道成寺』−壽初春歌舞伎観劇記
歌舞伎座の初春興行は、昼の部の『山科閑居』(忠臣蔵九段目)は一幕見、夜の部は『京鹿子娘二人道成寺』に加えて、『鎌倉三代記』、『十六夜清心』と出し物の全てを観劇した。しかし、観る側の問題であろうが、後の二つは観終わった後の印象が今一つである。と言うより、前の二つの観劇体験が強烈であったために、その印象が薄くなったきらいがあろう。

したがって、若干公平を欠く恐れもあるが、今回はあえて『山科閑居』と『京鹿子娘二人道成寺』に絞ってこの観劇記を書いて行く。

・『山科閑居』(仮名手本忠臣蔵九段目)
『勧進帳』と同じく、またかと言われるほど頻繁に上演される忠臣蔵だが、たしかに日本人の心に強く訴える力を持った普遍的な作品である。映画やテレビ時代劇とは異なり、赤穂浪士の討ち入りまでの苦労もさることながら、刃傷から起こった人間たちのドラマを克明に描いているところがが特徴であろう。

『山科閑居』は、その忠臣蔵の九段目。忠臣蔵は通しで上演されることが多い人気狂言だが、この場は独立で上演されることが多いようである。興行的に上演時間が収まりきらないことが理由であろうが、カットされるにはあまりにも大事な場であり、またこれを飛ばしては作者たちが忠臣蔵にこめた思いが伝わらないと思うが…。

話は、加古川本蔵(殿中で高師直に刃傷に及んだ塩谷判官を抱き止めた桃井家の家老)の後妻戸無瀬が、義理の娘小浪を連れて、雪の中、山科の里に大星由良助宅を訪ねてくるところからはじまる。かねて許婚同士の大星由良助の一子力弥と小浪を婚姻させるためである。ところが、妻お石は言を左右にしてこの婚姻を突っぱねる。二人の女形の丁々発止のやりとりは緊迫感溢れる。絶望した戸無瀬は諦めて他家へ嫁ぐよう小浪を説きつけるが、力弥を慕う小浪は聞き入れず、泣くばかり。

義理の娘の哀れな姿にともに死のうと決心して、小浪に向かって刃を振り上げたところへ「ご無用」と声がかかり。現われたお石は婚姻を許す代わりに、引き出物に本蔵の首を寄越せと言う。

ここまでが前半で、歌舞伎には珍しい女形三人の女のドラマである。いわば女忠臣蔵と言っていいであろう。戸無瀬は前半の舞台に出ずっぱりの重要な役どころ。立女形が演じる。しかし、お石もそれに負けるとも劣らないほど大事な役で、戸無瀬とほぼ同等の力を持った女形が演じなければ、ドラマとしての面白さは分からなくなる。今回は、幸いにして、玉三郎の戸無瀬、勘九郎のお石という願っても無い顔合わせで、見応えがあった。

まず玉三郎は、花道の出からその凛とした姿が武家の妻の品格を漂わせているとともに、子供を生んでいない女の色気も見せて惹き付ける。雪の中に赤(緋色と言ってもよい)の衣装も映えて美しい。

そして、お石に必死に迫るところから、絶望して死を覚悟するまでの戸無瀬には、義理の娘を思う心情が溢れる。さらに、お石から婚姻を許された時の喜び、一転して夫本蔵の首を求められた時の驚き…、どれを取っても一つ一つの身振り、仕草が理に適っていて、観る者を戸無瀬に感情移入させる。思わず一喜一憂してしまう。観客は、戸無瀬と一心同体になっている。だから、舞台と同じように泣き、微笑んでしまうのである。玉三郎の役作りのうまさであり、またそれを感じさせない自然さがある。

かたや、お石も由良助の妻として戸無瀬に劣らぬ品格を求められる。しかも、ある意味では憎まれ役だから、下手をするとただの意地悪としか見えず、演じるのが難しい役である。勘九郎は本音は小浪を哀れと思う気持ちを垣間見せて、さすがと思わせる。

菊之助の小浪も白無垢姿が目に眩しいほど清純可憐な乙女で、泣く場面が多いものの、力弥を思うあまりの一途さが良く出ている。

虚無僧姿の本蔵が入ってきてからの後半は、今度は男のドラマ。本蔵はお石にさかんに悪態をついて、わざと力弥の槍にかかる。そこへ由良助が姿を現し、二人が本心を明かす。本蔵が差し出した絵図面を喜んで受取った由良助は、力弥と小浪が一夜を過ごすよう言い置いて、いよいよ仇討ちに向けて出発する。

意外にも團十郎初役の本蔵は、敵役らしくないところもあるが、手負いとなって本音を明かすところは、武士の真情を見せて好演。幸四郎の由良助は、貫禄の大きさ。新之助の力弥は、これと言って特徴はないが、きりりとした若侍振り。

全体としては、忠義だけではない人間の心を描いた重厚な舞台だったと言える。


・『京鹿子娘二人道成寺』−道行から鐘入りまで
『京鹿子娘道成寺』は、言うまでもなく、真女形が踊る女形舞踊の大曲。玉三郎は、この踊りを得意の一つにしており、DVDの舞踊集については、既に書いた通り。昨年も初春の舞始めから南座の顔見世の舞納めと二度踊っており、つとに定評のあるものである。

だから、それを二人で踊るというのは、よくある書き替えで、ちょっとした遊び程度と考えて、とても本物の道成寺には敵わないと観るまでは思っていた。ただ、玉三郎と一緒に踊るのが、最近とみに若々しい美しさを見せる菊之助だから、期待はしていた。

ところが、その期待はいい方に裏切られた。二人の踊りのあまりの美しさに陶然となったからである。

その理由は、大きく言えば、次の二点であろう。

・女形二人が醸し出す妖しい美しさ
最初の発表では花子と桜子とあったのだが、後に二人とも花子と訂正された。何でもないようでいて、これはかなり大きな意味を持っている。花子は、簡単に言えば蛇体である亡霊であり、それがこの世の者とは思えない美しい娘姿で踊るところがミソである。それが二人ということは、双子ともつかず、分身ともつかない妖しさ、危うさがある。玉三郎は自らコメントして、光と影と言っていたが、いずれが光か影か、はたまた鏡の表か裏かはさだかではないものの、野の花を上を群れ飛ぶ蝶さながらに、絡み合い、縺れ合い踊るさまは、蓋し陶酔的である。

よく観れば玉三郎と菊之助の顔が違うのが当たり前なのだが、ふっと観た時にどちらがどちらか分からなくなる瞬間があった。

・踊り上手の二人の舞姿の美しさ
玉三郎の踊りのうまさについては、もう言うまでもなくその舞踊集として纏められているものを観れば誰の目にも明らかである。とくに瞬間瞬間に決まる形の美しさには、余人に真似できないものがある。また道成寺の場合、常に鐘への恨みという思い入れがあるから、最後の蛇体の本性を現しての鐘入りにも劇的必然性がある。

そういう玉三郎を相手に踊るもう一人の花子の菊之助も、並大抵のプレッシャーでは無かったと思う。初日の部分的であったが生中継された踊りを観ても、二人の踊りの実力の違いは明確であった。だが、この日の舞台を実際に自分の目で観て、驚いた。菊之助の腕が格段に上がっているのである。たしかに、二人を並べてみれば、玉三郎の踊りに一日の長があり、それはその美しい形にも表れる。だが、同じ振りあり、連れ舞いあり、違う振りあり、通常の道成寺を基にした踊りは、踊り手の力の違いを感じさせない艶然とした美しさを感じさせた。通常の娘道成寺を超えた面白さである。

まさに陶酔と至福の70分。あまりの美しさに見惚れてしまい、また2日後に一幕見で観てしまったほどであった。
平成16年1月17日:『三人吉三巴白浪』『毛抜』『吉野山』−初春浅草歌舞伎観劇記
一日二回の公演を同じ狂言でも演じる役者を変えているが、獅童の『毛抜』の粂寺弾正と、亀治郎の忠信に興味を持ったので、二回目の公演を方を観た。

・『三人吉三巴白波』大川端庚申塚の場
男女蔵の和尚、獅童のお坊、勘太郎のお嬢である。お嬢の「月も朧に白魚の」で名セリフであまりにも有名な場である。作者の黙阿弥得意の七五調のセリフは、音楽的で耳に快い。しかも、お嬢は男でありながら、女の姿。演じる役者には、幕末の頽廃的雰囲気を漂わせながら、このセリフを言うことが求められるが、まだ不十分なところもあるものの、勘太郎のお嬢は女と男の切り替えがしっかりと出来ているし、またセリフもなかなか聞かせる。三人の中では、一番の出来。また、最近父親の勘九郎にセリフまわしが益々似てきた。

それに比べて、後の二人はどうも黙阿弥の白浪物の味が薄いように思う。七五調のセリフがどうも間延びしていて、だれる。和尚など座頭が演じる役だから、まだやはり荷が重いか?

・『毛抜』−歌舞伎十八番の一つ
一番の注目であった獅童の粂寺弾正が、團十郎の教えよろしきを得て、まことに大きく愛嬌一杯の舞台である。花道の出から威容十分。また例の若衆の秀太郎と腰元の巻絹にちょっかいを出して、両方にふられるところなどは、いやらしさを感じさせず、かえって観客を魅了する磊落さがある。元々この狂言は、一種の推理劇という側面をも持っており、毛抜が立つのを見て、謎解きをして一件落着となるまでの捌きも見せ所だが、その点も申し分ない鮮やかさで、観る者にも爽快感を味あわせる。

気持ち良さそうな花道の引っ込みに、大向こうから大当たり!と声がかかったが、それに恥じない獅童の魅力全開の舞台であった。今後の成長が期待される役者の一人だ。

・『吉野山』
ご存知『義経千本桜』のうちの有名な舞踊。義経を追って、吉野山へ向かう静と義経の家来佐藤忠信、実は源九郎狐の道行舞踊である。

七之助の静は、まことに可憐。踊りも品があっていい。ただ忠信の主というより恋人と見えてしまうのが若干難点だが、そういう気持ちで踊っても構わないようだからこれで十分か。

いつも女形の亀治郎の忠信が、非常な驚きだった。踊りのうまさは定評のあるところだが、要所要所をきっちりと押さえた切れの良い踊りは、本当に踊りの醍醐味を味あわせてくれる。軍物語も竹本の糸に乗って、躍動感溢れ、かつ力強い。

花道の引っ込みも、通常とは異なって、ぶっかえりで源九郎狐となって、四の切りと同じく狐六法を見せる。これまた太棹に乗って、アクロバチックとも言えるような動きで観客を沸かせた。

叔父の猿之助に似ているのは当たり前のようだが、口跡・踊りまで良く似ているうえに、それを上回る踊りっぷりには、快感を覚えたほどだ。猿之助歌舞伎の良さを引き継ぐ人は、意外にも亀治郎なのかもしれない。


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