戸板康二


『團十郎切腹事件 中村雅楽探偵全集1』(東京創元社 創元推理文庫)
過去に断片的に読んできた戸板康二の架空の歌舞伎老優中村雅楽を探偵役にしたシリーズが創元推理文庫として全集化された。全5巻の構成は次のとおり。

第1巻『團十郎殺人事件』短編18編収録
第2巻『グリーン車の子供』短編18編収録
第3巻『目黒の狂女』短編23編収録
第4巻『劇場の迷子』短編28篇収録
第5巻『松風の記憶』長編2編収録(『松風の記憶』『第三の演出者』)

18篇中に未読の短編も少なくなかった。高松屋中村雅楽と新聞記者竹野に江川刑事のトリオが解き明かす推理短編は、歌舞伎を中心にした演劇界を舞台にしたものが多く、歌舞伎を知っていれば、面白さは増すが、しかし知らなくとも十分その推理はミステリ・ファンを楽しませるものだと思う。今まで文庫化された作品が少なかったのが信じられないくらいである。

しかも、本書の場合過去に出版された際の江戸川乱歩の解説や作者の作品ノート、講談社文庫飯後記と小泉喜美子の解説など資料的にも豊富なものが収録されているとともに、今回の創元推理文庫版の解説・編者解題などもまことに周到・綿密なもので、まさにミステリ史上独自の輝きを放つ中村雅楽全集の名に恥じない一冊になっている。

『グリーン車の子供 中村雅楽探偵全集2』(東京創元社 創元推理文庫)
中村雅楽探偵全集の待望の第2巻。表題が『グリーン車の子供』とあるので、収録された作品を知るまで、てっきり以前購入した講談社文庫版収録のものと共通する作品が多いと思っていたが、実は表題作以前に発表されたものばかりで、全18編中13編が未読だった。だから、まるで新しい作品集を読むように、頁を繰るのももどかしく、しかし一編一編異なる味の美味しい料理とお酒を賞味するように、じっくりと味わうことが出来て、大変満足した。解説者の表現を借りれば、「黄金の閑雅」、ゴールデン・ウィークにぴったりの読書だった。

第1巻の『團十郎切腹事件』に比べると、今回の18編は探偵小説誌『宝石』が休刊したためであろうか、途中十年近くの中断期間をはさんで発表されている。しかし、ほぼ年代順に収録されている作品は、そのような中断を思わせるような違和感はまったくなく、かえって作者の雅楽探偵譚の筆はもう自家薬籠中とも称すべきもので、読者もワトソン役の竹野と同じように、不可解な謎を雅楽がどう解き明かしてくれるか、ワクワクして読み進む。起こる事件は、第1巻とは大分様相が変わり、殺人事件も殆んどない。あるの主に裏つまり楽屋からみた歌舞伎の世界の日常である。どこの社会でも起こりそうな役をめぐっての役者の確執や色恋沙汰をめぐる事件とも言えないものである。

しかし、もう役者としては引退同様である高松屋中村雅楽は、先人の型を丁寧に教えることから多くの役者に慕われ、またその問題が起こると引っ張り出されて、切れの良い推理で解決する。しかも、殆んどが竹野の調査で得た情報をもとに推理する一種の「寝台探偵」であるが、提供された材料から解決を導き出す推理の冴えは唖然とするものばかりで、あらためて読み返すと周到に張り巡らされた伏線に感心してしまう。

だから、これは間違いなく日本のミステリー短篇集としては極上のものある。ただ、歌舞伎の世界を題材にしているから馴染みがないと敬遠する向きもあろう。たしかに、聞きなれない歌舞伎の演目や役者の世界の慣習などに最初は戸惑うこともあるかもしれない。しかし、そのような点も分かり易く説明されており、一旦作者の紡ぎ出す世界の住人となれば、雅楽の優雅な芸談や会話を読むだけでも至福の時間を持つことが出来る。今までの日本の名探偵で、これだけ多方面に薀蓄が深く、また洒脱な人も珍しいと思う。我々はこのような名探偵を持つことが出来たことを日本人として誇りに思っていいだろう。

しかし、と別に前言を翻すわけではないが、この探偵全集をさらに深く味わうためには、歌舞伎の演目に関する知識があればなおさらよいであろう。作者が好んで取り上げる『仮名手本忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑』(なかでも『寺子屋』)、そして表題作では『盛綱陣屋』を知っていれば、思わずにやりとしながら読めること、請け合いである。18篇のなかではじめて読んだ作品中では、雅楽が「一世一代の働きをします」と公言したとおりの大活躍をする『八人目の寺子』が、爽やかな後味からも一押しである。既読のものでは表題作は別として『妹の縁談』も捨て難い。

(追記)『グリーン車の子供』は、日本推理作家協会賞短編部門受賞作である高名なものであるが、実は一つ作者のミスがあることが今回の全集の付録の佐野洋の『新推理日記』ではじめて知った。これは読んでのお楽しみであるが、佐野氏も言う通りこの作品の価値を損なうものではないし、またあえてこの点に触れた付録もあわせ収録した編者の日下三蔵氏の識見を高く評価したい。
『目黒の狂女 中村雅楽探偵全集3』(東京創元社 創元推理文庫)
この第3巻は、前巻『グリーン車の子供』で日本推理作家協会賞を受賞してから、作者がふたたび雅楽ものを旺盛に執筆した頃の、言わば油の乗った時期の作品群を収録している。寝台探偵の趣きの中篇『淀君の謎』を除けば、ほとんどが歌舞伎および役者の周辺に起こった謎を高松屋中村雅楽が竹野を相手に解き明かす、またはその聞き書きを小説の形に構成にした短編集である。

初期の短編と異なり、殺人事件はまったく起こらず、またその謎も貴重品の紛失や役者周辺の人間関係の、言ってみれば日常の謎である。一見して何の糸口も見付からないような謎も、雅楽の博識に裏打ちされた名推理で意外な解決をみる。その魅力的な語り口の推理とともに洒落たオチがついているのも爽やかな読後感である。

例えば、目黒のバス停で竹野が三回も狂女に遭遇する表題作『目黒の狂女』は、一見不気味で何かとんでもないことが起きそうであるが、雅楽の種明かしはある有名な戯曲をヒントにして明快であるうえ、ユーモアもある。

そのほかの短編も歌舞伎の演目に関連するエピソードが豊富に散りばめられていて、その演目を実際に観たことがあれば、なおさら味わい深いものがある。作者は『寺子屋』がとても好きなようで、本短編集でもメインモチーフとして二回も効果的に使われているのも面白い。

『劇場の迷子 中村雅楽探偵全集4』(東京創元社 創元推理文庫)
戸板康二の中村雅楽探偵全集も第4巻となり、短篇集としてはその最終巻となった。収録作品は、単行本『劇場の迷子』『家元の女弟子』を中心にして、単行本未収録の三篇を加えて全二十八編というとても読み甲斐のある分量である。

もうここでは殺人事件は一篇たりとも起こらず、歌舞伎の世界を主として、高松屋中村雅楽が周辺の日常の謎を、明快に解き明かす。しかし、それのみならず、雅楽が豊富な舞台歴から蓄えている多くの演目の「型」を後輩に教えながら、同時に一種の人生指南をしていて、歌舞伎の藝談のお手本を読んでいるような錯覚にとらわれる。これは歌舞伎に関する著作が数多い著者の薀蓄によるものであろう。

登場する歌舞伎の演目も、お馴染みの『菅原伝授手習鑑』をはじめ、『仮名手本忠臣蔵』、『吃又』や『鞘当』など有名なものから、『源太勘当』『野晒悟助』などの狂言が重要な役割を占めている短編が多いことは、歌舞伎ファンには堪らない魅力である。

また、老優雅楽がいつまでも若い証拠のように、自宅近くの花屋で働いていた美少女に寄せるほのかな思いが微笑ましいが、後半の十篇近くで雅楽の藝談を聞き書きする関寺真知子を代表とするような美女も何人か登場して、華やかな彩りを添えている。

しかし、その謎の鮮やかな解決とともに、ほろりとさせるような雅楽の粋な計らいも心地よい。とりわけ「かなしい御曹司」や「市松の絆纏」のように雅楽みずからの入魂の演技が見もの(読みもの)で、印象深い。

そして、いつもながら話のオチの切れのよさには脱帽である。一例として「祖母の秘密」から。祖母の秘密について雅楽に質問に来た女子大生が帰った後のオチ。

”「ビールはまだありますか」と、夫人が襖の向うから声をかけた。
「もう一本持って来ておくれ」と雅楽は返事したが、チラリと私(注 話者である竹野記者)を見て小声でいった。
「あの子のいるあいだ、お茶も出さなかったくせに。まだ、焼き餅を焼くんだからね。ばアさんも、すてたものじゃない」”

『松風の記憶   中村雅楽探偵全集5』(東京創元社 創元推理文庫)
中村雅楽探偵全集の最終巻。既刊の四巻がすべて短編で構成されているのに対して、本巻は『松風の記憶』と『第三の演出者』の長編が二編収録されている。執筆された時期が1959年から61年にかけてと作者が推理小説を書き始めた初期の頃に属すること、また戸板氏は本質的に短編小説作家であったことから、この二長編は構成から言っても必ずしもうまい推理小説とは思えない。しかも、『第三の演出者』はお馴染みの歌舞伎の世界ではなく、新劇の世界を題材にしている。

にもかかわらず、どちらの作品もいつもながら中村雅楽の謎解きが鮮やかで説得性があり、そして事件解決後の後始末に見せる雅楽の優しさが、たとえ殺人事件を扱っていても読後感が爽やかである。『松風の記憶』は、巡業先で歌舞伎の老優が変死したことに端を発する長編で、老優の息子の歌舞伎俳優と日本舞踊の師匠、そして以上の三人に因縁のある若き劇団の研究生の女性の一種の三角関係を軸に物語が展開する。そのなかで女の妄執をモチーフにした舞踊『鷺娘』が重要な役割を与えられているのは、主題に相応しい選択である。しかし、この作品の中でもっとも印象的なのは、老優の死の舞台になった架空の古刹とその死の真相であり、ネタバレになるので詳しくは書けないが、ある歌舞伎の有名な場面が巧みに使われている。また、謎解きと犯人への雅楽のメッセージの場を句会に設定したのも大変自然である。

『第三の演出者』は、新劇の劇団指導者の病死後におきた事件をめぐり、竹野記者と事件関係者の手記が綴られ、それを読んだ雅楽が事件の真相を謎解きするという完全な安楽椅子探偵であるが、その入り組んだ人間関係を洞察する雅楽の目はやはり鋭い。劇団指導者がやや陰湿な性格に描かれているので、いささか暗い色彩が強いけれども、殺人トリックは上々のものであろう。

本巻は、中村雅楽探偵全集全5巻の掉尾を飾るに相応しい読みでのあるものであった。

『思い出す顔 戸板康二メモワール選』(講談社文芸文庫)
HP「歌舞伎のちから」でお馴染みの犬丸治氏の編集になる本書は、戸板康二の「メモワール」とも称すべき著作のなかから、「回想の戦中戦後」と「わが交友記」の二作品を抄録した滋味溢れる一冊。歌舞伎にとどまらず、新劇、映画、雑誌など戸板康二の活躍した幅広い世界での、多くの人々との交流を通じての思い出とちょといい話は、どの篇を読んでもその優しい視線と洒落た文章で飽かせない。それにしてもその豊富なエピソードは、氏の類いまれなる記憶力の賜物であろうが、あらためて驚嘆する。

戦中戦後の歌舞伎界と氏が勤務した日本演劇社での回想ももちろん興味深いが、意外だったのは全盛期の東宝映画と関係を持っていたことで、当時の藤本真澄という重役プロデューサーに請われて、砧撮影所に週一回程度通い、いろいろと映画制作のアドバイスをしていたという。知らないうちに氏の関係した映画を観ていたようである。

犬丸氏による愛惜を込めた周到な解説と年譜、著書目録がつくのも貴重である。しかし、こうして著書目録の眺めてると、戸板康二氏の著作集が出てもいてもおかしくないが、どこかで実現してもらえないものだろうか?



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