平成18(2006)年の観劇記


平成18年10月〜12月:三人の内蔵助―『元禄忠臣蔵』通し上演のまとめ
国立劇場が、その開場四十周年記念公演の大きな目玉として、十月から三ヶ月にわたって真山青果の畢生の大作『元禄忠臣蔵』を通し上演した舞台は、各月とも大入りで興行的にも大成功であったばかりではなく、出演する役者も必ずしも十分に揃っていたとは言いがたかったにもかかわらず、概して高い水準の成果をあげていた。また、歌舞伎公演には珍しく男性観客の姿が多数目立った三ヶ月でもあった。これも主君の遺恨を晴らすという忠臣蔵劇そのものが、判官贔屓と同じように日本人の心情に奥深く根付いている証拠であろうか?

これはたとえ原作が昭和初期に発表された新歌舞伎とはいえ、開場以来古典歌舞伎の復活通し上演を主にしていた国立劇場ならでは企画の勝利であり、まことに記念事業に相応しい壮挙と称えても過言ではないであろう。

全十篇を次の三部に分けての上演は、戯曲の内容から言って、至極妥当であり、まったく異論はなかった。

第一部 … 『江戸城の刃傷』『第二の使者』『最後の大評定』― 内蔵助:吉右衛門 刃傷から城明け渡しまでで、内蔵助が公儀に刃向かう決意を固めるまでの苦衷。

第二部 … 『伏見撞木町』『御浜御殿綱豊卿』『南部坂雪の別れ』― 内蔵助:藤十郎 討ち入りの決意を固めながらも思い悩む内蔵助とその周囲の姿
      
第三部 … 『吉良屋敷裏門』『泉岳寺』『仙石屋敷』『大石最後の一日』― 内蔵助:幸四郎 討ち入り本懐を遂げた内蔵助たちが切腹を申し付けられるまで

ただし、上演時間約四時間前後という制約があったのであろうから、ある程度の原作のカットは止むを得ないと思うものの、第一部から、二部、三部となるに従い、カットの場面が多くなり、その分折角の原作の豊穣で多面的な世界が薄まり、とくに第三部は内蔵助をはじめとした赤穂の浪士たちが浮き上っていたきらいが無きにしもあらずであった。元々青果がこの作品を書いた狙いは、片手落ちで不当な処断をくだした公儀に対する内蔵助の反逆である。通常の忠臣蔵と異なり、吉良上野介がまったく登場せず(第一部でちらりと刃傷後の姿が見えるのみ)、ゆえに史実はどうあれ、何故浅野内匠頭が吉良に対して刃傷に及んだかの理由すら、一切語られていない。あくまで内匠頭の無念とその無念を吉良の首級をあげることにより晴らそうとする内蔵助たちに焦点を充てて描く。同時に、甲府宰相綱豊卿の口を借りて、当時の世間の赤穂浪士たちに対する同情の眼差しを描いている。だから、周囲の浪士たちへの目を描かないと独りよがりにも見えてしまう欠点がある。第三部はそのあたりが、原作のカットによって露呈したのは残念に思えた。

このような内蔵助は、とても難しい役であったろう。第一部の吉右衛門は、最後の最後まで己の本心を明かさず、じっと絶える演技ばかりである。吉右衛門がテレビのインタビューで「毎日演じていてとても疲れる」と言っていたのは、本音であったろう。それまでの耐えに耐えた思いを爆発させるような本音の決意をもらして、花道の引っ込んでゆくことで、観る方も救われる。正直、吉右衛門で第二部、第三部と全三部を通して観てみたい思いは今でも強い。
平成18年11月18日:通し狂言『伽羅先代萩』−吉例顔見世大歌舞伎昼の部観劇記
正直言って今まではどうもこの『伽羅先代萩』が苦手だった。それは何故かと言えば、主役の政岡は女形最高の大役であると同時にまた至難の役でもあり、今まで誰が演じても満足したことがなかったからである。とくに毒を盛られる惧れがあるため何も口にしないでひもじい思いをしている幼君鶴千代とわが子千松のために、御殿の場で茶釜を使って自ら飯炊きをする場面が、演じる役者のみならず、観客の方も緊張感を持続するのが難しいからであるからだと思う。事実過去この場面では、睡魔との闘いであったことがしばしばだった。あの六代目歌右衛門の政岡ですら、その異常なまでの緊張感には脱帽したけれども、観ている側もぐったりとした記憶がある。

しかし、今回は通し狂言ということもあろう、政岡の菊五郎、八汐と細川勝元の二役の仁左衛門、沖の井の三津五郎、仁木弾正の團十郎、荒獅子男之助の富十郎など顔見世らしく当代一の役者が揃い、それぞれ場面ごとにくっきりとメリハリを付けて演じられたので、非常に高い水準の先代萩を観ることができたと言える。

『花水橋』

珍しい場であるが、奥州な大国主でありながら郭に通いつめている頼兼の帰り道を曲者が襲う通し狂言の序曲をなす。ほとんどだんまりの場面であるから、あまり見せ場は無いが、曲者が頼兼の肩をもんだりするなどユーモラスなところもある。昼の部はこの一役のみの福助の頼兼は、遊蕩している大名の駘蕩とした雰囲気には欠けるが、お決まりの衣裳はよく似合っている。歌昇の絹川谷蔵はいかにも力士らしく力強く、気持よさそうに演じていて、手堅い出来である。

『竹の間』『御殿』

この場は幼君暗殺の陰謀をめぐる御殿内の女たちの争い。八汐は普段立役の役者が務めるので、今回は仁左衛門。口跡もほぼ立役の時と同じである。言わば政岡をいじめる悪役であるが、徹底しての悪振りを発揮するだけでなく、どこか憎めない愛嬌と滑稽さもあわせ見せ、舞台がより大きくなっていて、素晴らしい。

沖の井は女形が珍しい三津五郎。竹の間では、八汐と拮抗して政岡を擁護する立場であるから、負けないだけの手強さがもう少し欲しいが、華があるのがいい。秀調の松島がきっぱりとして、その分を補っている。

主役の菊五郎の政岡は、幼君への忠義とわが子への思いを鮮明に演じ分けていて、以前に比べて格段に良い出来である。腹のすわった内面の充実がこの成果をもたらしたのではないだろうか。飯炊きがないのは通し狂言としては物足りない部分もあるが、今回は逆に配役の妙もあって、まとまりの良い仕上がりになった。

『床下』

富十郎の荒獅子男之助は、持ち前の切れの良い口跡を聞かせ、元気なところを見せているのが嬉しい。対する團十郎の仁木弾正は、妖術遣いの怪しい雰囲気の見事な引っ込みを見せてくれた。

『対決』『刃傷』

この二つの場は、前半とは対照的な男たちの法廷劇と争い。ここでも仁左衛門の細川勝元が、男でも惚れ惚れするような爽やかな捌き振りで、弾正を追い詰めてゆく。團十郎は悪人振りを強調するあまりか、台詞のテンポが遅く、仁左衛門とかみ合っていない恨みが残るが、大きさは十分である。段四郎の渡辺外記左衛門は、刃傷の場面で命をかけのの忠臣としての篤さを丁寧に演じていて、胸打たれる。

昼の部最後は、舞踊『七枚續花の姿繪』。三津五郎の粋な美男子源太が軍話と廓での遊女との痴話喧嘩を巧みに踊った後、願人坊主に変わっての軽妙なチョボクレは、この人の独擅場であろう。

吉例顔見世大歌舞伎昼の部の主な配役・話題と見どころは、こち
平成18年10月7日、21日:『仮名手本忠臣蔵 五段目、六段目』『髪結新三』−芸術祭十月大歌舞伎夜の部観劇記
・『仮名手本忠臣蔵 五段目、六段目』

今年の正月に大阪松竹座で二十年ぶりに演じて大評判だった仁左衛門の勘平をようやく観る事ができた。これだけの名作となると、型が決まっているが、仁左衛門のものは、上方のものに、音羽屋型をあわせ、より洗練された印象となっている。この勘平という主人公は、主家の大事に腰元お軽と逢引していた、言わば不忠者。その婿が侍に戻ることができるように、親娘が内緒で相談して、お軽を祇園の遊女に身売りして用立てた半金ををめぐって、間違いの悲劇が起きる。

このような勘平であるから、演じる役者はそれに値する色気のある立役でないと、なかなか務まらない。その点仁左衛門の勘平は、容姿・口跡とも年齢を感じさせない若々しさと美しさに溢れている。とくに、五段目は決まりきったような型も、大変流麗に決まる。六段目は一転して自分が舅を誤って殺してしまったと悶え苦しむなかにも、朋輩が訪ねてきた時に、慌てて仕舞ってあった刀を取り出して埃を払いながら、滑って鞘走った刀身で思わず髪の乱れをなおすのは、侍の気持を忘れないという演出であろうが、十分納得させる自然さがある。切腹してからも有名な「色にふけったばっかりに」から間違いが分かり、連判状に血判を許され、安堵して死んでゆくまで一気に観る者を引き込む力があった。

菊之助のお軽は、その前の『道行』の舞踊がないので、お軽の勘平に対する愛情表現が難しいと思うが、前半は勘平に対する情をやや抑え過ぎのように思う。しかし、夫婦の別れの抱擁と駕籠に載せられて花道へ引っ込みに、一挙に哀しみを放出させた。特筆すべきは、海老蔵の定九郎。凄みのある色悪で、たった一言の台詞「五十両」も低く見事。花道での見得は、まさに浮世絵から抜け出したような美しさで、観ている方がゾクゾクした。

・『髪結新三』は、最近世話物への挑戦を続ける幸四郎のもの。しかし、決して先入観を持って観ているつもりはないが、季節外れのうえに、幸四郎の新三では、ドスがきき過ぎて、台詞に江戸の小悪党の小粋さはどうしても出てこない。黙阿弥の新解釈を試みたようであるが、流れるような七五調がなくては、黙阿弥の傑作も生きてこない。彌十郎の家主が大収穫で、笑わせた。段四郎も貫禄。

芸術祭十月大歌舞伎夜の部の主な配役・話題と見どころは、こち
平成18年10月7日、21日:『葛の葉』『寿曽我対面』『熊谷陣屋』−芸術祭十月大歌舞伎昼の部観劇記
・『葛の葉』―『蘆屋道満大内鑑』

陰陽師安倍晴明が夢枕獏の陰陽師シリーズをきっかけとして著名になるまでは、迂闊にもこの葛の葉の狂言とは結びつかなかったが、安倍保名と葛の葉姫の姿を借りた信田の森の白狐と間に生まれた安部童子が晴明であるから、超能力を持っていて当然ということになる。

もっとも、この『葛の葉』の部分は、民話にある異類婚姻譚の一つである信田狐の伝説に基づいている。安倍保名に助けられた白狐が、許嫁の葛の葉姫の姿となって夫婦となり、子までなして幸せに暮らしているところへ、信田庄司夫妻に伴われて本物の葛の葉姫が訪ねてきて、正体が明らかとなり、子を残して泣く泣く信田の森へ帰ってゆく話である。

魁春が葛の葉(および本物の葛の葉姫の二役)を演じるのがはじめてとはとても思えないような爽やかな好演で、期待以上の出来だった。元々父歌右衛門の厳しい指導を受けて、折り目正しい演技では定評ある人であったが、どこか人形のようなぎこちなさ・不自然さもつきまとっていて、観ていてもどかしいこともあった。しかし、魁春襲名以来の進境は著しく、前向きに役作りに取り組んでおり、そのひたむきな演技はどれも好感の持てるものになっている。白狐の葛の葉は清潔な色気のある若妻で、夫と子供への思いに溢れており、機織りにも精を出す甲斐甲斐しさ。葛の葉姫は赤姫で、二役の早替りも楽しませてくれる。

この狂言の見せ場の一つは、狐の正体が明らかとなったことから、子別れの哀しい思いを一首の歌に託して、障子に曲書きをする場面である。曲書きとはケレンの一つで、文字を下から上へ、また左手で左右逆の鏡文字を、さらにはむずかる子を両手であやしながら口で書く。幕が閉まった後、スッポンから現れた白狐が、面明かりに照らされて引っ込むところははじめて観たが、とても幻想的であった。門之助の安倍保名も品があり、好一対だった。

・『寿曽我対面』

菊之助、海老蔵の曽我十郎、五郎が和事と荒事との対比が明確で、この様式的な狂言の新しい魅力を再認識させてくれた。まず花道の出からこの二人の容姿の美しさにはため息が出る。海老蔵は筋隈もやんちゃで荒々しい五郎にぴったりであることに加えて、市川家の口上で恒例の睨みのような鋭い目の力と朗々たる口跡の荒々しさで、オーラ全開である。ある意味ではまがまがしいとも言えるほどのパワーである。しかし江戸庶民が愛好した五郎は、きっとこのような超越的な力を持っていたからこそ、歌舞伎のスーパースターであり続けたのではないだろうか?もちろん、台詞が荒削りで、やや含み声、時々素になってしまうなどの短所も散見されるが、それを超える強烈な印象が残る。

対して菊之助は、優美で端正。五郎の勢いを柔らかくなだめながら、後ろ向きに座っている型の何と美しいことか!この二人の十郎・五郎はこれからも観る事が出来るであろうが、今という瞬間の舞台に遭遇できたことは観客として幸せなことである。

この若き二人を包み込むような、大きな團十郎の工藤祐経。ただし、田之助の大磯の虎は、ご本人が膝を痛めているだけに、傾城の重い衣裳での動きはさぞや負担であったろうと気になってしまった。もう少し配慮した配役が出来なかったのだろうか?

・『熊谷陣屋』は、時代物役者幸四郎の十八番の演目で、芝翫、團十郎、段四郎、魁春の共演で充実したものと言えば足りるであろう。あえて付け加ええれば、團十郎の源義経の品格に、この人の藝の深まりを観る思いだった。仁左衛門の『お祭』で、粋で華やかに昼の部は終わる。

芸術祭十月大歌舞伎昼の部の主な配役・話題と見どころは、こち
平成18年9月16日:『菊畑』『籠釣瓶花街酔醒』『鬼揃紅葉狩』−秀山祭九月大歌舞伎夜の部観劇記
・『菊畑』

鬼一法眼三略巻のうち、この『菊畑』は菊の花が咲き誇る庭が美しい季節感溢れる舞台である。しかし、見取り狂言で頻繁に出るほどには面白い内容とは思えない。この後に続く『奥庭』があってこそ話がつながると思うのであるが。幸四郎の智恵内はいわゆる繻子奴であるが、実は吉岡鬼三太という鬼一法眼の弟であり、奴虎蔵実は牛若丸(染五郎)に仕えながら、鬼一法眼秘蔵の「六韜三略」の巻物を手に入れようとしている。しかし、この智恵内は、いかにやつしとはいえ、どう見ても重々しすぎて、奴風情には見えない。幸四郎のニンにあった役ではないように思う。

それに対して、染五郎は色若衆の柔らかさと色気、牛若丸としての品もある。しかし、この舞台で一番の収穫は、芝雀の皆鶴姫である。典型的な赤姫であるが、最近の芝雀はどの役を演じても、清潔な色気と美しさが溢れんばかりである。今回の皆鶴姫も牛若丸を思う恋情がひたひたと伝わってくる。三人による幕切れの見得は、まさに絵面の見得そのものの美しさであった。

左團次の吉岡鬼一法眼と歌六の笠原湛海は、今月一役のみとは勿体ないが、左團次は大きさと重みに少々不足していたように思う。

・『籠釣瓶花街酔醒』

初代の当り役である佐野次郎左衛門を演じる当代吉右衛門が素晴らしい。吉原仲之町の花魁道中で八ツ橋の美しさに見惚れてしまった佐野のお大尽は、そのあばた面にもかかわらず、八ツ橋に入れあげる。しかし、八ツ橋は間夫の栄之丞ゆえに次郎左衛門の身請け話を手強く愛想尽かしをする。一旦は諦めて佐野へ帰った次郎左衛門は、半年後にまた吉原にやって来て、過去の経緯は水に流したように言葉巧みに八ツ橋を呼び出し、恨みの思いをこめて妖刀籠釣瓶で斬り殺す。

不夜城の花の吉原で八ツ橋に我をも忘れる序幕から、夜昼も上げず通いつめて八ツ橋の情人となって身請け話まで進み、嬉しくてたまらず、思わず自慢したくなるような得意の絶頂が、一転しての縁切りの愛想尽かしの目にあう屈辱まで、吉右衛門は凡夫の歓喜と苦悩、怨念を等身大の人間として描き出す。そして、憤る周囲を宥めて、佐野へ帰る決心をする時の心のうちは瞋恚の炎が燃え盛っているにもかかわらず、それを覚らせないように努めながらも悄然と帰るさまは、観る者にそぞろ哀れを催させる。一人優しく見送る芝雀の九重も、憐憫の情がこもっている。

大詰めも、一切を水に流してまた初会と言いつつ酒を進めながら、顔を上げた時、直前の愛想の好い顔が一瞬にして狂気の表情に変わる激しさは、その前の場の恥辱がいかに大きいものだったことをあらためて納得させる。殺しの場面も八ツ橋がゆっくりとえび反りで倒れて行き、刀の切れ味をうっとりとなめるように見る次郎左衛門が印象的な幕切れである。

もう一人の主役福助は、最近コミカルな役が精彩あるのに対して、じっと腹に溜める辛抱の演技が必要な花魁などの役は、表面上の美しさに止まっていて、役の掘り下げに欠けている場合が多かったが、今回の八ツ橋は福助襲名時に歌右衛門から厳しく指導された役であるから、さすがに立派に演じていた。序幕の花魁道中の花道での微笑みもさらりとしていて美しい。愛想尽かしも手強い点はなかなかであるが、声が甲高くなるところがあるのは惜しい。去り際に次郎左衛門にすまないという気持ちを見せて引っ込むところも、花魁の境涯の儚さを感じさせていた。これだけの役を演じられる力があるのだから、今後も立女形の道に向かってより精進して欲しいものである。

幸四郎が立花屋長兵衛に付き合う。歌昇の下男冶六も質朴で好ましい。

・『鬼揃紅葉狩』

萩原雪夫が書いたこの『鬼揃紅葉狩』は、更科の前実は戸隠山の鬼女が平惟茂が襲う、通常版の『紅葉狩』の侍女も皆鬼女になるという趣向。舞台は松羽目に紅葉をあしらい、舞台上方には破風があるすっきりとした装置。

また通常は長唄、常磐津、竹本の三者掛け合いであるが、今回は常磐津と竹本の掛け合いが中心で、さらに筝の伴奏が加わる。また大薩摩がチョボ床に座り、二挺二枚で普段とはいくらか違った唄と三味線を聞かせるのも珍しい。総じてこれらの演奏は、出囃子と相俟って躍動的な音楽となっていて、この舞踊の面白さを倍加していた。

染五郎の女形は久しぶりに観たが、踊りも十分に美しく艶やかである。ただ、昼の部の感想に書いたように、やや咽喉を痛めていて高音がかすれていた。高麗蔵、吉弥、宗之助、吉之助の四人の侍女もそれぞれの持ち味を発揮していて、花を添えていた。

信二郎の平惟茂は、目の覚めるようなすっきりとした高貴な武将になっていて、最近好調な舞台が続いている。松江、種太郎の従者。山神の代わりに、今回は男山八幡の末社として、御曹司たち四人―廣太郎、廣松、隼人、玉太郎である。四月に初舞台を踏んだばかりの玉太郎が、しっかりとした所作で観客の拍手を独り占めしていた。五人の鬼女と平惟茂・従者たちの立ち回りで、華やかな舞踊は終る。これはもっと再演されてよい楽しい演目である。

秀山祭九月大歌舞伎夜の部の主な配役・話題と見どころは、こち
平成18年9月16日:『車引』『引窓』『六歌仙容彩』『寺子屋』−秀山祭九月大歌舞伎昼の部観劇記
・『車引』

もういやと言うほど何回も観ている演目であるが、今回は亀治郎の桜丸が柔らかさのなかに、三兄弟の一人と納得させる力強さもあるのが目に付いた。松緑の梅王丸は、元気一杯ではまり役。染五郎の松王丸は、ニンではない役であるものの、線の細さを補うように精一杯大きく見せようとする努力の跡が伝わって来る。口跡も低くしているが、さすがに少々咽喉に負担がかかっているようで、夜の部の『鬼揃紅葉狩』では、更科姫の声がかすれ気味で苦しそうであった。段四郎の時平は、この三人のなかに入ると格段にその公卿悪の大きさが際立つ。『寺子屋』の春藤玄蕃とともに、この人が脇を固めていると厚みが増す。

・『引窓』

これも昨年十月に菊五郎、左團次、田之助、魁春で観たばかりであるが、吉右衛門の与兵衛と富十郎の濡髪長五郎の二人がとてもいい。吉右衛門は義理の母と長五郎への思いが、さりげないなかにもじわりと染み透るような暖かさである。

富十郎は、台詞回しにも相撲取りらしい直情と純情さに溢れていて、うまい。吉之丞のお幸はこの人が演じるといささか地味になり、この役が脇役のような印象を与えてしまい、損をしている。芝雀のお早は、しっとりとした女房振りが初々しい。

・『六歌仙容彩』−『業平小町』『文屋』

雀右衛門の最近の舞台は観ている方もハラハラすることも多いが、その年齢を感じさせない美しい小野小町と梅玉の在原業平のコンビで、優雅でおおどかな平安絵巻を思わせる舞踊を見せる。文屋は染五郎が官女たちを相手にコミカルな踊りを披露していて、達者である。

・『寺子屋』

幸四郎の松王丸と吉右衛門の源蔵が真正面からぶつかりあう昼の部一番の見ものである。この兄弟が演じる役柄は重なる部分が多いためか、同じ舞台での共演は十二年振りとのこと。何にせよこの二人の共演をもっと増やすよう関係者は努力をして欲しいものである。

忠義ためにわが子を身代わりにするという、言ってみれば荒唐無稽の話を緊迫の悲劇に出来るか否かは、ひとえに松王丸と源蔵役を演じる役者の腕にかかっている。幸四郎は、時代物の古風な味わいが良い面に出ていて、父先代幸四郎を髣髴とさせた。前半は病を装いながら、わが子の首を涙を抑えて菅丞相と偽る苦衷、そして真実を明らかにしてからわが子が喜んで身代わりになったことを聞いて、大泣きするところなど忠義と親子の情愛のはざまを揺れる複雑な心情をメリハリをつけて、くっきりと見せていた。他方、吉右衛門は、源蔵戻りと言われる花道の出から小太郎を身代わりにするまで、忠臣としての苦悩が滲み出ていた。ただ、この役は、後半は辛抱役であるだけに吉右衛門にしてはかなり抑え気味の演技である。

芝翫の千代が母親としての情の表現にやや薄さ・浅さを感じたのは、このヴェテランにしてと意外だった。魁春の戸浪は、前回に続いてもうすっかりこの人の持ち役になっていて、丁寧に演じていたのには好感が持てた。

秀山祭九月大歌舞伎昼の部の主な配役・話題と見どころは、こち
平成18年9月2日:『応挙の幽霊』−第20回歌舞伎フォーラム公演観劇記
江戸東京博物館で開催される歌舞伎フォーラムも今回の公演で、節目の20回目を迎えたと言う。若手実力派歌舞伎俳優が少人数のスタッフとともに歌舞伎の面白さを伝えようと続けてきたこの公演が20回目となったとはおめでたい限りである。初心者から通まで気軽に楽しめる公演が人気の秘密であろう。

今回はスペシャル版として、仁左衛門のお弟子さんのヴェテラン松之助と松三郎、歌舞伎フォーラムではお馴染みの京妙、門之助一門の瀧之の四人での公演である。

恒例となっている最初の演目は、『歌舞伎の美−江戸の美、上方の美』である。今回は松三郎の分かりやすい解説と指導で、江戸の荒事の代表である助六と上方の和事の代表である紙屋治兵衛(筋書きでは、吉田屋の伊左衛門の予定だったようであるが、紙衣の衣裳が借りられなかったようで、河庄の治兵衛に変更)を対比して、それぞれの美の違いを体験してもらおうとの試みである。いつものように観客に舞台にあがってもらって、今回は衣裳さんの手も借りて、助六と治兵衛の衣裳を着て、小道具も持つと、簡単な台詞と所作、そしてお囃子で2名の観客の男性もそれなりに役者気分になり、楽しんでいたようである。その後、瀧之の鳶頭と京妙の芸者による舞踊『お祭り』があるのは豪華である。藤間勘十郎が新たに振付けたものだが、ただ惜しむらくは時間の関係か、一部省略があり、物足りなかった。しかし、さわりでも十分江戸の粋を味わえる。幕が閉まると、京妙が幕外へ出ての挨拶のサービスには、会場から大きな拍手があった。

小山内薫の『息子』は、新歌舞伎の範疇に入るものだが、三人の役者で江戸市井の人情と親子の情愛を描いていて、さすがに松之助の火の番の老爺が、頑固でいて情のある役を好演していた。しかし、歌舞伎初心者には、黒御簾の伴奏も無く、どこまで歌舞伎として鑑賞できたかは少し疑問があった。

今回の演目の目玉は、新作の歌舞伎舞踊『応挙の幽霊』。落語の噺を題材にして、勘十郎の振付、鶴賀き(漢字が変換できないが、七を三つ書く)代寿の新内節の作曲によって、江戸の画家円山応挙の書いた幽霊画から抜け出した美人幽霊が繰り広げる愉しさ、面白さ溢れるもの。美人幽霊に扮した京妙が徐々に大変な酒飲みである本性を現して来るところが見ものである。

終演後バックステージ・ツアーに参加、大道具さんが親切な舞台装置の説明で、馴れない舞台を小人数で作っているのに感心した。なお、今回は並行して「子ども歌舞伎」も上演しており、なおさら大変そうだった。今回の歌舞伎フォーラムの演目では、大道具さんが担当する附け打ちが残念ながらなかったが、このツアーの最後に実際にうっていただいた。目の前でのバタ、バタはさすがに迫力が違った。なお、会場の制約から、歌舞伎座では上手に場所が取れないため、舞台の前に特設されているのも珍しい。
平成18年8月8日(初日)、26日(千穐楽):『南総里見八犬伝』−納涼歌舞伎第三部観劇記
【初日の感想】

初日に観劇した感想を一言で言えば、最近上演されていない演目の初日であることを割引いても、テンポが非常に遅く、緊張感のない舞台だった。原因はいろいろ考えられるが、一つは滝沢馬琴の膨大な原作のエッセンスを追うのに精一杯の渥美清太郎の台本にあるだろう。今回今井豊茂の補綴・再構成が入っていたようであるが、それでも冗長の感は否めない。納涼歌舞伎第三部の通し狂言の制約はあるにせよ、全五場十一幕で三時間の上演時間では題材を十分に消化し、描き切れていないように感じた。

さらにそのなかで、八人の犬士に出来る限り見せ場を作ったことにも起因するであろう、主役が分散していて、焦点がボケている。円塚山の場のだんまりなどは歌舞伎のお約束とは言いながら、孝太郎の犬村角太郎(直前の浜路との二役)と松也の犬江親兵衛がいきなり登場して来て、物語のつながりがかえって分かり難くなる。

しかも、舞台装置の段取りが悪いのか、場面転換にかなり手間取り、二回目の5分の幕間以上にかかる場合があった。観客の緊張感は続かないというものである。

苦言ばかり呈したようであるが、三津五郎の色悪の網干左母二郎、八人の犬士のリーダ的な犬山道節の二役や信二郎の犬飼現八の思わぬ大きさ、福助の女装した美貌の犬士犬塚毛野の倒錯した面白さ、芳流閣の「がんどう返し」など、歌舞伎ファンには楽しめる点も多い。楽日の再見に期待したい。

【千穐楽の感想】

初日観劇の簡単な感想で、そのテンポの遅さと舞台全体の緊張感のなさに苦言を呈したのであるが、楽日はさすがにテンポ・アップしていて、終演時間が初日は21時40分を過ぎていたのが、21時17分〜18分には終わっていたから、20分以上も早くなっていたことになる。主に舞台転換の時間短縮によると思うが、これのみでも随分印象が違う。だんまり、六方の引っ込み、大薩摩、大立ち回りとそれに続くがんどう返しなど、歌舞伎の作劇術のいいとこ取りの連続で、八犬伝の面白さはかなりの確率で観客に伝わったと思う。初日からこれくらいの面白さを見せてくれれば、楽日はもっとよくなっていたと思うのは、欲張りすぎだろうか?

加えて、主役の三津五郎、染五郎、信二郎、高麗蔵などの八犬士が、それぞれ自分の役をかなり掘り下げて演じていたから、見せ場も多く、魅力度があがっていた。有名な芳流閣での染五郎と信二郎、捕手たちの立ち回りも段取りが変わっていたようで、スピードと迫力が出ていた。また扇雀の山下定包は、このような国崩しの役をはじめて見たが、初日よりも凄みと大きさがあった。なお、チャリ場で亀蔵がハンカチ王子を早速真似ていて、大受けだった。

ただ、あえてそのうえで繰り返すようであるが、原作のさわりをつなげたばかりのダイジェスト版という台本の欠点は蔽い切れなかったように思う。五幕十一場と場面転換多いうえに、定式幕をひく場合が多いのは、いかにも観客の感興をそぐ。折角の歌舞伎向きの素材であるので、再演の時はさらに台本に手を加え、主役をもう少し絞るなど工夫が必要であろう。

納涼歌舞伎第三部の主な配役・話題と見どころは、こちら
平成18年8月26日(千穐楽):『慶安太平記』『近江のお兼』『たのきゅう』−納涼歌舞伎第一部観劇記
『慶安太平記』は、橋之助の忠弥がニンにあった役で、大詰めの大立ち回りととともに、熱演・健闘。激しい立ち回りは、観るものを飽きさせない。

『近江のお兼』は、福助としてはあっさりとしているのいい。若い者と馬がからみ楽しい舞踊の一幕。

新作舞踊『たのきゅう』は、民話的素材をうまく活かし、回り舞台をフルに使って、面白おかしく、楽しさ一杯だった。三津五郎、染五郎はじめ出演している役者たちも楽しみながら、踊っているのがよく分かった。観客も手拍子が出て、乗っていたから、幕が降りても拍手が鳴り止まなかった。これだけ盛り上がったのだから、カーテンコールがあっても不思議ではなかったが、残念ながら定式幕がひかれて終演になってしまった。

納涼歌舞伎第一部の主な配役・話題と見どころは、こちら
平成18年7月8日、23日、29、31日(千穐楽):『山吹』『天守物語』―七月大歌舞伎夜の部観劇記
・『山吹』

原作を読んで、これはいったい歌舞伎になるのだろうか?と首をかしげたのも事実である。時は作者の鏡花が書いた現代となれば、大正時代である。場所は伊豆の修善寺温泉。舞台には標題となった山吹と桜が花咲く。

泥酔した人形使いの老爺藤次(歌六)に対して、あまりの姑の仕打ちに耐えかねて家出してきた子爵夫人縫子(笑三郎)が、「自分は今まで何の望みも叶わなかったから、お前の望みを一つだけ叶えてあげよう」と言う。藤次はかつて一人の女になした罪滅ぼしに、美しい婦人に激しく打擲して欲しいと頼む。このあたりは谷崎潤一郎の女性崇拝の耽美的な世界と共通するのは間違いないけれども、はじめは縫子が密かに恋い慕う画家島津(段治郎)に自分の思いを分かって欲しいとの意図が強い。しかし、それを拒まれると、縫子は言う。

「このおじさんと一所に行きます。―この人は、婦人を虐げた罪を知って、朝に晩に笞(しもと)の折檻を受けたいのです。一つは世界の女にかわって、私がその怨みを晴らしましょう。―この人は、静御前の人形を、うつくしい人を礼拝します。私は女に生まれました。ほこりと果報を、この人によって享けましょう。」

二人は盃を交わしてから、南無大師遍照金剛を唱えつつ手を取り合って花道を引っ込む。この時、縫子は下駄を脱ぎ捨て、片褄を引き上げるところは、その決心が決然としたものであることがよく見て取れる。これはどう見ても道行そのものである。それに対して、画家島津は、下駄をみて一瞬自分も身を捨てようかと迷うが、「いや、仕事がある」と思い止まる。その時、「これは魔界か、夢か、いや現実だ」とつぶやくことによって、観客も一編の白昼夢を観たような錯覚を覚える。

歌六の人形使いが、落ちぶれてみすぼらしく、しかし過去の罪障を背負った人間の陰影を的確に表現していて、この戯曲の面白さを知らしめてくれたまず第一の立役者であろう。笑三郎の縫子も、感情の振幅が大きく、難しいこの役を、たとえ一つの愛を失っても女性として純粋でひたむきに生きてゆこうという気持を前面に出していて、気迫溢れる熱演だった。まるでホームズそのままのような姿の段治郎は、歌舞伎座の舞台ではさぞや演じ難かったろうとは推測するが、台詞がやや一本調子の堅さがあったのは残念だった。

笙・篳篥と鐘の音しかないまったくの音楽がない舞台は、普段の歌舞伎の音曲に慣れている観客にとってはやや物寂しい部分もあるが、これはこれで一つの歌舞伎になりえていたと言えよう。

・『天守物語』

『山吹』に比べると、これはもう完全に歌舞伎狂言になっていると言っても過言ではない。時代も不詳ながら封建時代とあり、播州白鷺城の天守第五重に住みつく臈たけた美しさを持つ魔界の夫人富姫が主人公である。その五重の真ん中に鎮座する大きな藍色の獅子頭が印象的である。前半は遠く猪苗代から遊びに来た亀姫との戯れ、後半はその亀姫のために城主の白い鷹をとったことから、若き鷹匠姫川図書之助が禁断の天守に上ってきて、富姫が恋に落ちる。泉鏡花の戯曲の最高傑作と言っていいこの作品の粗筋は、これ以上書く必要がないであろうが、前半部の遊び心旺盛な愉しさ、一転して後半部の緊迫した図書之助との恋という構成は非常に緊密でゆるぎないものになっている。魔界の貴婦人と人間の若者の恋は、大変幻想的で、また観る者の想像力をかきたてるものである。玉三郎は前半はたおやかな美しさと艶やかさ、後半は凛とした美しさの対照をくっきりと彫り深く演じている。富姫が図書之助を思う台詞「まことの戀は心と心」「たった一度の戀だもの」が、とても哀切に響いた。

そのような内容を受けて、舞台装置も簡素で美しい。また冒頭の女童の合唱「此処は何処の細道じゃ、細道じゃ」や、侍女五人(と言っても、これも皆富姫と同じ妖怪であるが)が天守の欄干から秋草を釣っているのは、耳も目も楽しませてくれる詩情溢れる美しさである。そして、ようやく天守夫人が登場する設定が心憎い。しかも水色の着物に竹笠と蓑というアンバランスが、かえって玉三郎の美しさを際立たせている。また富姫を中心とした会話の台詞も鏡花らしい少し気取ったものであるが、美的センス一杯の流れるような美しさがある。新調の紫色を主体にした裲襠も眼に鮮やかである。前回に続いての上村吉弥の奥女中薄が手堅い出来。

ここで響く唯是震一の音楽は、邦楽器を主体にした、どこか哀愁を帯びていて、懐かしい。しかし、そのなかにモダンな響きもあり、もしやフランス音楽あたりが交じっているのではと推測は出来たのであるが、yukiさまの『ご機嫌!歌舞伎ライフ』の掲示板でご教示いただいた。

玉三郎 舞台の夢 第二章

実にドビュッシーの『夜想曲』の第1曲「雲」が随所に効果的に使われていたのだ。考えてみれば、姫路城の五重の天守を舞台にしたこの鏡花の傑作戯曲にこれほど相応しい音楽もないであろう。舞台装置もホリゾントに雲が流れ行くさまが映し出されるから、なおさらこの音楽はぴったりである。

鞠つきの遊びに訪れた猪苗代の亀姫(春猿)も同じく魔界に住む妖怪の仲間。しかも、土産が富姫の大好きな生首というのは怪奇趣味が横溢しているけれども、どこかユーモアもある。亀姫の眷属の朱の盤坊(市川右近)や舌長姥(門之助)もそのような役を愉しみながら演じている。これで春猿にもう少し余裕があれば、さらによかった。

後半は海老蔵の図書之助が、まさに爽やかでひたむきな若き鷹匠ぴったりの適役で、今の役者でこれほどの水際立った美男の若者を演じられる役者も彼をおいて他にいないであろう。玉三郎と海老蔵の好一対の美男美女の恋は獅子の眼が追っ手に傷つけられて、悲劇の終末を迎えそうになって一転大団円を迎える。猿弥の工人桃六は、まだ貫禄が不足するのは止むを得ないが、輝く光が二人を包むが幕切れは観る者にカタルシスを与える。人間界を追われた若者と悲劇的な死によって魔界の主となった美女との恋の成就は、醜い争いの明け暮れる人間批判ともなっている。

【楽日のカーテン・コール】

楽日の天守物語は、三回のカーテン・コールとともに感動的な幕切れだった。

前日もあったようだったから、ある程度期待はしていたが、三回それも三回目は歌舞伎座の満員の観客総立ちのスタンディング・オベーションである。最初のカーテン・コールは、討手たちが全員並んで拍手に応える。次は歌女之丞、京妙、守若などの侍女たちとかむろたちである。それからは薪車、吉弥、猿弥、春猿、右近、門之助の順に満員の観客の盛大な拍手を受ける。そして主役の海老蔵、玉三郎が登場して、歌舞伎座内はいやがうえにも、興奮の渦に巻き込まれる。三回目の観客総立ちのスタオベに、出演者も全員嬉しそうに応えて、鏡花祭の七月大歌舞伎は、舞台の充実度と興行的にも大成功のうちにめでたく千穐楽を終えた。

【泉鏡花特集のまとめ】

以下、この七月の昼夜四本立てによる泉鏡花特集について、あえてこの場でまとめを書いておきたい。

この七月のように昼夜泉鏡花の作品のみで歌舞伎座の一ヶ月間の興行をうつのは、歌舞伎座の歴史はじまって以来のことで、まさに空前絶後のことであるが、今回の舞台上演を観る限り、それはにわかに信じられないことであった。歌舞伎が同じ演目をみとりで繰返していることに批判があり、最近ようやく勘三郎を中心とした働きかけが野田秀樹などの新作を生み出し、また演出家不在の歌舞伎界にあって、これらの新作にあわせて作者自らの演出、または新劇界から蜷川幸雄や串田和美などが新たに演出して新風を吹き込んだからである。

明治の文豪の一人泉鏡花が大正時代に集中的に書いた戯曲は、人間界を超越した力をもった異形のものたちを主人公にしての人間批判の夢幻劇であるから、当然歌舞伎の題材としてもっとも相応しいものと思うが、歌舞伎での上演には縁がなかったのは不思議としか言いようが無い。とりわけ傑作の『天守物語』は、舞台で上演してくれるなら作者本人が費用を負担してもいいと言ったほどだそうだが、作者の生前にはその希望がかなえられることはなかった。上演記録によれば、『天守物語』は戦後新派の花柳章太郎の富姫が初演であり、その後歌舞伎座で六代目歌右衛門が歌舞伎としてのはじめての上演だった。他の三つの作品にいたっては、歌舞伎座での公演としては今回が最初である。

何故鏡花の作品が歌舞伎に縁が薄かったのかを今回四作品の舞台に接して考えてみると、その理由の一つにその独特のきらびやかな長台詞があるだろう。七五調の歌舞伎の台詞とは異なって、倒置法が多用された台詞は、見得と附け打ちとあわせクローズアップの手法をとる歌舞伎には馴染まないと考えられたのかもしれない。たしかに歌舞伎本来の発声とは違い、鳥のさえずりのように、唄うように滑らかな発声は役者たちも苦労は多かったと察せられる。しかし、玉三郎が共同演出または監修で、若い役者たちを指導した賜物であろう、出演した役者の台詞は時に観客を酔わせるような音楽的快感をもって耳に快く響いたのであった(澤瀉屋一門の若手にとっては、大変な試練だったと思うが、その努力が十分に報われた舞台でもあった。あえて誤解を恐れずに言えば、偉大なる師匠猿之助の呪縛から解き放たれて、彼ら独自の今後の方向性を見出す一つのきっかけになった記念すべき公演だった言えよう)。鏡花作品が大好きで、一度はこのような舞台を歌舞伎座で実現したかったという玉三郎の情熱が結晶した舞台だった。

だから、また今回の舞台のように、『夜叉ヶ池』の一部に長唄と竹本の三味線が使われていたことを除き、出語りや黒御簾の伴奏がなく、附け打ち、柝、定式幕も使われない、大向こうの掛け声自粛という歌舞伎としては異例ずくめのやり方(『海神別荘』に至っては、洋装の衣裳・ハープの多用など)は、鏡花の作品自体が持っている音楽性を大事にした演出であり、またそれらを生かした簡素でいて美しい装置はぴたりとはまっていたが、これは到底従来の歌舞伎の枠には納まりきらず、それどころか大きく越えていたものであったからこそ、歌舞伎作品としては馴染まないと考えられたのも当然と思われる。事実今回の舞台は、これは歌舞伎ではないという意見も多くあったと思うが、実際の舞台に現出された幻想美は、公演前の危惧を吹き飛ばすような、常識をくつがえすに足る光り輝くもので、いずれも今後の歌舞伎の演目として残ることを立派に証明した。歌舞伎とは何か?については意見が分かれるが、私はやはり歌舞伎役者がその鍛錬された肉体を通して演じるものは、すべて歌舞伎であるという広義の考え方を取っている立場であることを付言しておきたい。

ただ、大好評のなかで『山吹』一つのみがトーンが違う毛色の変わった作品と見られ、賛否両論あったように感じた。たしかにこの作品のみは今後単独で上演されるかどうか微妙な点があることは承知している。しかし、これとても他の三つの作品とあわせて考えてみれば、ちょうど交響曲の第三楽章としておかれた変奏曲の緩徐楽章とも位置づけることが出来る。言わば泉鏡花が恋愛至上主義と人間批判を主題にして謳いあげた壮大な交響曲が、歌舞伎座の一ヶ月間に鳴り響いたと言っても過言ではない七月興行だった。

七月大歌舞伎夜の部の主な配役・話題と見どころは、こちら
平成18年7月17日、29日:『夜叉ヶ池』『海神別荘』−七月大歌舞伎昼の部観劇記
・『夜叉ヶ池』

夜叉ヶ池は実在の池だそうであるが、越前地方に残る竜神伝説を基に、鏡花はハウプトマン『沈鐘』にも影響を受けて、この作品を書いたという。池の龍神と人間との約束で、日に三度鐘を付くことを怠れば、池から大津波が起こり、村里は水底に沈むという。

その約束を守るため鐘楼守となった萩原晃(段治郎)とその妻の村娘百合(春猿)、萩原晃の旧友山沢学円(右近)の三人が主役となる現代の人間界と、夜叉ヶ池の主白雪姫(春猿の二役)が恋い慕う千蛇ヶ池の御公達のところへ行こうとして、それでは約束を守っている人間たちの村里を水底へ静めてしまうと眷属に止められる魔界が対比的に描かれている。かたや現代劇風、こなた歌舞伎風の作りの二つの世界が交互に現れるが、少しも違和感がないばかりか、伝説を信じない村人たちを通じて、人間の愚かさがかえって浮かび上がる。雨恋の生贄として百合を差し出そうとする村人たちとそれを止めようとして果たせず、百合とともに自刃する晃。実は昔白雪という娘が同じような目に合い、夜叉ヶ池に身を投げたことが明らかになる。

そして丑満時に鐘がつかれなかったことから、夜叉ヶ池から大津波が押し寄せ、天地晦冥のうちに村は水底に沈む。歌舞伎座での大洪水の演出はいかにと注目したが、水布を使った簡素なもので、最初の観劇時には少々拍子抜けしたが、しかしその後白雪姫が恋人のもとへ行くことが出来ることを喜びつつも、百合を哀れみながら「お百合さん、お百合さん、一緒に唄をうたいましょうね」と語り掛ける幕切れは、照明の効果もあって、大変美しく哀愁を帯びた巻く切れであった。

春猿は、監修の玉三郎の指導によるのであろう、百合と白雪姫この二役を兼ねる必然性を十分納得させる堂々たる出来である。とくに「恋には吾身の生命も要らぬ」の台詞には、恋に身を焦がす激しさがよく現れていた。この作品は春猿の代表作となる予感がする。また、段治郎、右近ともに台詞も演技も自然で明快、彼らのみでもこのような鏡花作品を歌舞伎座の大舞台で立派に演じられることを証明したことは収穫であろう。吉弥の万年姥も重みがある。

・『海神別荘』

『夜叉ヶ池』の大洪水の幕がおりた後、次に来る作品が、今度は海底宮殿を舞台に、その主公子(竜宮城の乙姫さまの弟という設定)が、陸上から大枚の貢物と引き換えに美女を嫁に貰う話である。水にかかわる話が続くのも涼やかで夏向きであるが、鏡花の狙いは、あくまで人間界から隔絶した魔界を舞台に人間批判をすることにあったろう。公子、美女、女房など役名に具体的な名前が無いのも、その証左である。

幕が開くと、天野喜孝の美術になる琅かん殿(ろうかんでん)の装置が、海底映像をバックに華麗なる豪華さで、目を引く。そして、上手袖にハープ奏者。しかも、海老蔵の公子は、黒ずくめのマント、タイツとブーツの絵に描いたような美男の魔界王子さまである。海老蔵は、例によって台詞に一本調子のところがあるのがやや難点であるけれども、その不満を吹き飛ばすような力強さと雄々しさで、魅力的である。猿弥の沖の僧都、門之助の博士は、どちらも鏡花特有の華麗できらびやかな長台詞をよくこなしていて、手堅い。原作の字面を追っているのみでは、僧都の祝儀目録などはこうも美麗には響かないと思う。

玉三郎の美女は、原作に島田のお髪、お振袖とあるのとは異なり、洋装に近い純白の衣裳であるのは疑問なしとはしないが、その不満を帳消しにするような眩くばかりの光り輝く美しさである。出迎えの女房(笑三郎)と黒潮騎士たちが護衛して、白龍馬に乗った美女一行が海底宮殿に向かう場面は、海中を漂ようさまが美女の言い知れぬ不安を表していて秀逸である。笑三郎も美女のよき介添えとして、存在感がある。

海底宮殿に無事着いた美女は、公子があまりに恐ろしげであることに怯えるが、宮殿の豪華華麗な美しさと宝物に安堵し喜び、今度は自分が無事生きている容子を陸の故郷の人間たちに見せてやりたいと懇願する。しかし、自分がもう蛇体に見えることを知り、嘆き悲しむ。ここでも玉三郎の儚げな風情が見所である。そして、それは公子の魔法のためだと言ったことに公子は怒り、美女の処刑を命じる。海老蔵はこの時の忿怒の形相と台詞に迫力がある。公子自らの処刑寸前に美女が公子の綺麗さ、気高さなどを称え、許される。ここはこの原作の構成に若干無理が感じられ、唐突の感が否めないけれども、無事ハッピーエンドで終る点は、爽やかな後味である。

こうしてみると、『海神別荘』は『天守物語』と鏡の裏表のように対をなしていることが分かる。五重の天守の空と、海底宮殿。主役の魔界の住人と人間界の住人がヒーローとヒロインで入れ替わっての一途な恋愛。そしてどちらも魔界からの人間批判が、多様な台詞で唄うように語られるから、観客はその詩情に酔うことになる。玉三郎がこの二作品をとりわけ愛して、昼夜の舞台の最後に置き自らが主演した理由が分かるような気がする。

七月大歌舞伎昼の部の主な配役・話題と見どころは、こちら
平成18年5月21日:『江戸の夕映』『雷船頭』『外郎売』『権三と助十』−團菊祭五月大歌舞伎昼の部観劇記
海老蔵と勘三郎の襲名披露興行の関係であろう、恒例の團菊祭の開催も三年振りである。しかも、文字通り柱となる團十郎が病癒えて、歌舞伎十八番の『外郎売』で舞台復帰するのが、何よりも今月一番の話題である。市川宗家と言えば、歌舞伎界を代表する家。その当主團十郎が舞台から遠ざかっていたのは、火が消えたように寂しいものであったから、この復活の舞台は、歌舞伎ファン必見のものであった。

・『江戸の夕映』

野田秀樹や蜷川幸雄の歌舞伎進出に刺激されたのであろうか、最近はいわゆる新歌舞伎の久しぶりの上演が増えつつある。古典も大事であるが、旧態依然として同じ演目が出るのは、観る方も食傷気味の場合も多い。だから埋もれていた新歌舞伎の掘り起こしも悪くない。戦後の歌舞伎復興期にも、歌舞伎の危機が囁かれ、当時の幹部俳優たちは古典とあわせて、必死に新歌舞伎や新作の上演に努めていた。宇野信夫、北条秀司等の劇作家のみでなく、大佛次郎や三島由紀夫等の作家も歌舞伎の台本を彼らのために書いたのである。

『江戸の夕映』も大佛次郎が、当時の海老蔵(十一代目團十郎)、梅幸、松緑に当てて書き、明治維新前夜の群像を、当時の時代背景の雰囲気豊かに描いている。今回の上演は、その三人の孫−海老蔵、菊之助、松緑が主役を演じているのも興味深い。徳川家に殉じようとする一本気な海老蔵の小六、時代の流れに逆らわず武士も捨てて生きる大吉、その恋人で粋で気風の良い菊之助の芸者おりき、三人ともまだ若さゆえの固さは残るものの、とても新鮮な役作りで見せてくれた。

しかも、この台本が主役のみならず、脇役の端々まできっちりと性格別けをして書かれているので、ドラマに潤いと広がりがある。例えば、團蔵演じる小六の叔父松平掃部は、新政府のご威光を振り回して、娘お登勢(松也)をわがものにしようとしつこく通う亀蔵の吉田逸平太に対して、娘には許婚がいるからときっぱりとはねつけるその潔さ。その後まだ江戸に戻らぬ小六の身を二人して案じて思い遣る場面の何と胸打たれることか。松也も小六への思いの一途さが良く出ていて、可愛いさ・健気さがある。また、PARCO歌舞伎でその秘めた実力をいかんなく発揮した萬次郎の妾おきんの存在感、別人かと思わせるような右近の船宿の娘お蝶の甲斐甲斐しさとなど、あげだしたら切りがない。最後は江戸に戻った小六に再会した大吉と、そこへ駆けつけるおりきとお登勢。江戸の夕映が赤く舞台を染めての幕切れは、とても爽やかな後味の残るものだった。

・『雷船頭』

松緑の船頭と空から落ちてきた少し気の弱い雷とがからむコミカルな舞踊。松緑は爽やかさにも不足がなく、切れ味良い。右近は、ここでも若さに似合わない踊りのうまさを見せていた。右近の将来恐るべしである。

・『外郎売』

團十郎の五郎の台詞が鳥屋から聞こえてきただけで、もうワクワクし、そして花道にその元気な姿を現したのを見て、なぜか我が事のように嬉しくなる。少し痩せたような気もするが、口跡は滑らかで、爽やか。

本舞台へ来ると、菊五郎の工藤祐経ともに狂言半ばの舞台復帰の口上がある。当代團十郎自身が復活した歌舞伎十八番で、しかも一昨年出演するはずだったが病に倒れたため果たせなかった因縁のものである。ご本人が復活狂言で復活できたのは嬉しいと言うのも実感が籠っている。

さて肝心の狂言は、曾我狂言に小田原名物外郎の売り立ての早口を取り入れたのが見所・聞き所で、さらに今回は梅玉の兄十郎が出るヴァージョンである。曾我物としては、五郎・十郎兄弟が並んだ方が、やはり絵になる。三津五郎の朝比奈、時蔵の舞鶴など豪華な役者が揃い、これぞ歌舞伎の様式的な美しさの見本とも言うべき絵面の見得は眼福であった。團十郎の元気な舞台復帰を心よりお祝いしたい。

。『権三と助十』

これも岡本綺堂の新歌舞伎の範疇に入るが、井戸替えなど江戸庶民の長屋生活を活写した点は、世話物そのものである。また話も大岡裁きを背景に出してくるあたりは、『半七捕物帳』を書いた作者の面目躍如の推理小説的要素もふんだんに盛り込まれている。しかし、他の綺堂の新歌舞伎とは異なり、謳いあげるような台詞の美しさは見られず、早口の台詞がポンポンと飛び交う喜劇的な要素が強い。アドリブも多くあるようで、菊五郎・時蔵の夫婦、三津五郎・権十郎の兄弟喧嘩など、気楽に笑える。左團次の大家六郎兵衛も、好々爺で味がある。

この舞台を上演すると、何故かハプニングが多く、台詞のとちりなのか、アドリブなのか分からないほどドタバタになる場合が多いようである。ただ、残念なことに(?)、所見の日はあまりそのような場面はなかった。幕切れに死んだはずの彦兵衛が実は生きていて、田之助が登場するが、菊五郎が「台詞が少なくてよかったね」とは、先輩役者を気遣っているようで笑わせる。この喜劇の中でただ一人悪人の團蔵の勘太郎が凄みをきかせ、際立っている。團蔵は、今月の昼『外郎売』も含めて三つに出演する活躍である。

團菊祭五月大歌舞伎昼の部の主な配役・話題と見どころは、こち
平成18年5月21日:『傾城反魂香』『保名』・『藤娘』『黒手組曲輪達引』-團菊祭五月大歌舞伎夜の部観劇記
・『傾城反魂香』

この通称吃又はよく上演されるが、今回は三津五郎と時蔵のコンビによる又平・おとくである。はじめ三津五郎の又平に精気が感じられず、前半は時蔵のおとくが、夫思いで情のあるまことに甲斐甲斐しい世話女房振りで光っていた。

しかし、後半になって、死を決意しての一念で書いた石の手水鉢の絵が反対側に通り抜ける奇蹟を起こることで、師匠より土佐の名前を許される。その時の又平の驚きと大きな喜び!ここからの三津五郎の生き生きとした演技を見ると、前半の演技は吃り対する劣等感ゆえに、意図して抑制したものであり、後半部分との陰影をよりくっきりとさせるためであることが分かる。時蔵のうつ鼓にあわせての踊りには、歓喜とそして誇らしさがよく出ている。

彦三郎、秀調とも脇に徹して神妙である。梅枝の凛とした気品も今後の舞台出演に期待が高まる。

・『保名』・『藤娘』

菊之助が保名を、海老蔵が藤娘をどちらも初役で踊る、と最初発表があった時、逆ではないかと驚いたものである。よく考えてみると、立役と女形を兼ねる菊之助であれば、保名を踊ることは何ら不思議ではない。しかし、海老蔵は二年前の襲名披露で鏡獅子を踊った時、前半の弥生がどうしても男の部分が見え隠れして固く、立役の女形舞踊としての限界を感じさせた。だから、今回の藤娘も同じような感想をいろいろ見聞きして、正直のところあまり期待していなかったのが事実である。

ところが所見の日は、全体としてまだ余裕があるとまでは感じなかったが、言われていたような男っぽさは微塵もなく、非常に初々しく可愛らしい娘になっていた。化粧も美しく、背景の藤の大木の作りもあって体の大きさも目立たない。女形は後姿が一番難しいと言われるが、肩甲骨をぎゅっとすぼめて、綺麗な姿に決まっていた。所作も一部ぎこちないところがあるけれども、藤音頭のところも情緒豊かで、見応えがあった。これで表情がもう少しにこやかであれば、言うことはない。

保名を書くのが逆になってしまった。菊之助の踊りは丁寧で、綺麗である。ただ、この幻想舞踊にはある程度の年輪が必要で、まだ若い菊之助には手に余る部分があると思った。


・『黒手組曲輪達引』

歌舞伎十八番の『助六』のパロディ。しかし、どちらかと言うと、菊五郎二役のうち、番頭権九郎が目一杯お遊びに徹しており、大いに笑わせる。まず顔の作りからして昔テレビのデン助劇場で人気のあったデン助こと大宮敏光そっくり。こんな男と一緒に吉原の新造である白玉(菊之助)が危険をおかして廓を抜けて駆け落ちする訳がないと思ったら、案の定ヒモの伝次(海老蔵)が裏で糸を引いていて、五十両の金を奪われて、権九郎は不忍池へドボンと落される。二人は追っ手がかかり、別れ別れになる。

その後、突然歌舞伎座に響き渡るR・シュトラウス作曲『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭の音楽(余談:キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』であまりにも強烈な印象を与えた音楽でもある)とともに、着ぐるみの矢鴨姿で、菊五郎が再登場。暑い!と着ぐるみから上半身を出して、黒御簾が『恋のダウンロード』を演奏するなか花道へ。今度は六方を踏んで引っ込むという何とも滅茶苦茶なものであるが、ここまで徹してくれれば面白い。

続いて吉原仲之町と三浦屋前では、一転して颯爽とした花川戸助六が、左團次の鳥居新左衛門とその門弟たちを相手に、繰り広げる男伊達。股くぐりや煙管、下駄など助六の趣向があちらこちらにちりばめられている。しかし、鳥居新左衛門は意休というより御所五郎蔵の星影土右衛門であり、雀右衛門の揚巻も最後に少し出るのみで、華やかさには少々欠けるきらいがある。高齢で止むを得ないとはいえ、雀右衛門には楽日までプロンプターが付いていた。

大詰めは、菊五郎劇団お得意の立回りが、屋根上でスピーディーに展開する。ただ、上演時間の関係かあっという間に終わってしまったのは残念である。

團菊祭五月大歌舞伎夜の部の主な配役・話題と見どころは、こち
平成18年5月20日:『アマテラス』ー坂東玉三郎&鼓童の共演観劇記
鼓童が結成25周年を記念して、坂東玉三郎とのコラボレーションで実現した『アマテラス』は、会場に外国人客も多く見受けられて、鼓童の海外での人気の高さがうかがえた。

会場の世田谷パブリックシアターの舞台は半円形のエプロン・ステージが張り出しており、奥行きもあるから、普段見慣れた歌舞伎座などの舞台に比べると、かなり縦長に見える。劇場全体も塔のように高い。しかし、これが音響的にもとてもいいようである。

さて、話は有名な記紀の日本神話の世界。アマテラスが荒ぶるスサノオに手を焼いて、天岩戸に雲隠れしてしまう。そのため、世界は真っ暗になってしまい、困った神々がアメノウズメとともに面白おかしく、踊り囃したところ、アマテラスが姿を現して、また光を取り戻す。

この神話を和太鼓集団鼓童が、玉三郎の指導の下、どのような演奏を繰り広げるか?が一番の興味の的だったが、太鼓を中心とした和楽器による音楽劇という印象だった。とくに第一部は、玉三郎は一箇所のみ短く歌うように声を発するのみで、銅鑼や太鼓に加えて、笛や筝を中心とした和楽器と歌も音楽の重要な役割を担っている。それは鼓童の躍動的な太鼓を期待する向きには少々物足りなく感じるかもしれないが、玉三郎のアマテラスの登場時には、笛と筝などで表し、優美な所作がそれに加わる。金色の衣裳と髪飾りなどの装飾品も含めて、まさに目も眩むばかりの神々しい美しさに溢れている。対するスサノオは鼓童のベテラン藤本吉利が扮しており、その荒々しさはお得意の大太鼓の乱れ打ちで遺憾なく発揮されている。また、大きな金色と青の布を使って舞台一杯に前後左右に巧みに動かすことによって、高天原のアマテラスとスサノオの対立を象徴的に表現している。

後半の第二部は、アマテラスが天岩戸に隠れてしまったため、真っ暗闇の世界。神々が困惑するさまを滑稽な動きと音で表現し、笑わせる。それからは、もう鼓童のパワー全開ともいうべき様々な太鼓を使っての、激しくもまた躍動的な太鼓演奏の連続で、まさに八百万の神々の饗宴である。その音は劇場内に低く、また高く渦巻くように鳴り響き、反響し、我々観客の体全体までが共鳴しているような錯覚を覚えた。太鼓の音というのは、人間が本来持っている野生のエネルギーと目覚めさせるものがあるのだろうか?とにかく聴くものを興奮させずにはおかない。そして、小島千絵子のアメノウズメが、アマテラスを再び出現させようと、太鼓にあわせて、激しく舞い踊り、祈りを捧げる。このあたりは記紀の神話では、少し猥雑な踊りと書かれているようであるが、今回のアメノウズメの扮装も巫女風のものになっていて、芸能の始祖であるばかりではなく、シャーマンとしての特徴を表したものだったと思う。

やがて、かすかに天岩戸が開き、後光の中からアマテラスがゆっくりと今度はポスターにあるようなこれまた豪華な白く光り輝く衣裳で現れて、また高天原に光が戻り、歓喜のリズムのうちに幕が閉じる。玉三郎のアマテラスは微笑み一杯で、鼓童のメンバーを暖かく見守り、演出家としての一面もちらりと見せていた。早くもスタンディング・オヴェーションをする観客もあり、何回ものカーテンコールのうちに、アンコールが出演者の挨拶も兼ねて演奏されて、興奮のうちに二時間強の舞台は終わった。
平成18年4月22日:『関八州繋馬』−四月大歌舞伎昼の部観劇記
六世歌右衛門の五年祭追善興行として、故人に由縁の演目を並べたようであるが、あまりに地味すぎて、一言で言えば、満足できなかった。

『狐と笛吹き』は、北条秀司の初歌舞伎作品で、久方ぶりの上演ということで、期待したが、主役の笛の楽人春方の梅玉は幻想的な物語にぴったりの哀愁を帯びた雰囲気で、良かったが、福助の狐の化身ともねが地声になったり、コメディ的になったりで、正直がっかりした。

雀右衛門の『高尾』は、身体の動きが少し不自由になっているので、動きのない踊りが選ばれたのだろうが、これは萩江節がもともとやや暗いので、観ている方もつらい舞踊であった。

坪内逍遥の『沓手鳥孤城落月』は、大阪夏の陣での豊臣家滅亡時の物語で、淀君の狂気錯乱が見所。芝翫の淀君は、さすがに貫禄はあるが、これまた観ている方は陰々滅々として楽しめない。国生の裸武者の頑張りは立派である。勘太郎の秀頼も、豊臣の御曹司としての大きさがある。

『関八州繋馬』でようやく開放感を味わった。主役の魁春は少し小粒であるが、如月姫実は小蜘蛛の精、実は土蜘蛛の精で襲名以来の好調振りを見せていた。菊五郎の源頼信の品格、仁左衛門の良門の力強さともに大きく、舞台に厚みをましていた。玉太郎が松江を襲名し、その長男が新しい玉太郎となったお披露目が劇中半ばの口上であり、吉右衛門、梅玉、そして祖父の東蔵とともに出ているのも微笑ましい。
平成18年3月19日:PARCO歌舞伎『決闘!高田馬場』観劇記
三谷幸喜が染五郎から依頼されて構想した最初の段階から、堀部(中山)安兵衛の高田馬場の決闘を主題にして、疾走する歌舞伎を目指したと言う通り、全編ノンストップ、幕間なしの約130分あまり、役者も観客も、疾走に疾走を重ねて、笑い、ほろりとし、泣き、そして楽しんであっという間に終ってしまった芝居だった。ブログ記事では、「疾走する可笑しみ」と標題をつけた。

劇場内に入ると、幕もなくむきだしの舞台、装置も何もない。このような舞台で歌舞伎が本当に出来るのだろうか?と考えたのは杞憂だった。舞台後方が高くなっていて、黒い紗幕があり、見ているうちに黒御簾さんたちがだんだん入ってきて、音を出し始める。ちょうどオーケストラの演奏前のような雰囲気で、笛の人が吹いているのが音合わせのオーボエのようにも感じられて、苦笑。最初の演奏は、「バ、バ、バ、バ、パルコ歌舞伎」と唄っているようだったが、なぜかここだけはマイクを使っていたので、音が割れて逆に聞き取りにくい部分があったのは少し残念である。 

柝が打たれると、舞台装置が左右からせり出してきて、花道はないので、真ん中下手の扉から役者が出てきて、下手通路を通って舞台にあがる。その後小さな回り舞台を活用して、簡素な装置を四方に裏表でうまく使って、裏長屋の表と部屋の中を作り出していた。また、安兵衛が高田馬場に駆けつけるところは、白い幕(ブレヒト幕というらしい)を二段で多用し、スピード感溢れる場面転換を繰り返して、迫力を出していた。 

役者は主役の三人は出ずっぱりで、二役・三役と早替りで大活躍・大熱演である。染五郎が呑兵衛だが面倒見がよく、長屋の人々に愛される、かっこいい安兵衛と中津川祐範というおかまっぽい道場主という対照的な二役で見せ、また笑わせてくれた。勘太郎の大工又八は、安兵衛を愛するあまり裏切り、最後は安兵衛のために喜んで死ぬ役を汗もつばも飛び散るような大熱演で演じきった。ところどころ父勘三郎にそっくりだったところが見えた。亀治郎も驚くような三役早替り。どこか真面目過ぎて、周りから浮いてしまう可笑し味のある侍小野寺右京と堀部ホリなどを描き分けていた。大奮闘のせいかやや声が枯れていて心配のところもあったが、口跡は猿之助そっくりで、台詞回しは段四郎そのまま。 

他に五人の役者−萬次郎のおウメばあさんが今までのイメージを打ち破る適役で面白く、また高麗蔵・宗之助の夫婦役もこんなにうまかったかと思うような溌溂とした演技で、橘太郎のへぼ医者と錦吾の菅野六郎左衛門とともにしっかりと舞台を盛り上げていたのが強く印象に残った。 

余談ながら、染五郎が倒れて天水桶の後ろを通って壁をぶち抜いて倒れ、すぐにもう一役になって上手から出てきて、その後また安兵衛本人になって足を回収して現れるのは、文句なく笑える。また、主役三人の人形劇もあり、面白い(この人形のイメージは、とくに亀治郎役については、
……てぬぐいぶろ……さんの記事
をご覧下さい。傑作です)。また、亀治郎が勘太郎が打った釘を踏んでしまって、さかんに足袋の裏から抜こうとするシーンが再三出て来るのが、何とも言えず可笑しかった。

そして、極めつけのビックリは、高田馬場に向かう時、幕を川に見立てて橘太郎などが渡るところで、水中との設定からつけ打ちさんが何と水中メガネとシュノーケルをつけている。

しかし、何よりも三谷脚本が観客を笑わせて、ほろりとさせて、そして惹き付ける練達の作劇術で、うならせた。全編少しも冗長な所がなく、飽きさせず、幕切れもまもなく高田馬場に着く寸前というところで終わるのも鮮やかなものだと感心した。 これは主演の染五郎・勘太郎が出ていたからでもないだろうが、野田秀樹作『野田版 研辰の討たれ』と並び現代を生きる作者による新作歌舞伎の傑作として、後世に残るものであろう。一歌舞伎ファンとして、このような作品に出会えたことを幸せに思ったのは大袈裟ではないだろう。
平成18年3月18日(北番初日)、4月23日:『東海道四谷怪談、北番、南番』−コクーン歌舞伎観劇記
今回の公演は勘三郎が勘九郎時代の十二年前にはじめてコクーン歌舞伎の公演を行った時に出した『東海道四谷怪談』を、演出の串田和美とともにさらに練り上げて南番とし、また通常上演時間の関係で省略される「三角屋敷の場」を出して、現代劇にも大きな影響を与えているこの鶴屋南北の傑作狂言の全貌を見せようとした意欲的な北番と、その二つの版(番)を、演じる役者も演出も変えて同時に出すという画期的な試みである。

以下では、その北番、南番を異なった視点から比較しながら、観劇記らしきものをまとめてみた。

「音楽」

まず決定的に異なるのが、BGMである。歌舞伎の音楽と言えば、黒御簾つまり和楽器による下座音楽であるが、南番が伝統を踏襲しているのに対して、北番は柝と付け打ちを除いて、全編朝比奈尚行による現代音楽と原始的な民俗音楽風のもので構成されている。これには最初戸惑ったのだが、劇の進行に伴ってまったく違和感がなくなり、登場人物たちの怨念と悲劇を表出するにはむしろ相応しいようにも感じられた。とくにチェロに似た低音の弦楽器の音には魅了された。

ブログのコメントでご教示いただいたが、この楽器は馬頭琴、それも南シベリアのトゥバ共和国の馬頭琴で、モンゴル製とは違う独特の音色を奏でるとのこと。ちなみに、馬頭の装飾は演奏に邪魔でとってしまったそうである。


「装置」

かなりサイケデリックな背景や両袖にコンテナのようなものを二段に積んでいたのは、北・南両方とも共通であったが、そのコンテナを役者の出入りのみならず、群集の登場や伴奏者の場所としても十分に活用していた点は、北番の方に軍配が上がる。南番は後半になると背後に押しやられて使われず、やや邪魔物扱いに近かった。

昨年の『桜姫』と同様、舞台の上に所作台のような小さな舞台を出して、これを回転させて、回り舞台よりも早い舞台転換を見せていたのは、やはり北番の方が印象的で、とくにうらぶれた伊右衛門浪宅と金ぴかの伊藤喜兵衛内の場の対照が鮮やかに出ていた。

「役者」

勘三郎のお岩、橋之助の伊右衛門、笹野高史の伊藤喜兵衛などは、共通に演じているが、笹野が北番では金にあかせて孫娘の望みをかなえようとする喜兵衛を戯画的に強調した演技で際立っていて、按摩宅悦との早替りもあり、事実上北番を引っ張る大きな存在だった。

勘三郎のお岩はもう十分に手の内に入っていて、安心して観ていられた。その他の役としては、佐藤与茂七もすっきりとして悪くないが、今回はじめて観た直助権兵衛が、お袖に執心してせまるいやらしさと、自分の犯した罪の重さに気がついてからの、いわゆる戻りには説得力があった。

橋之助の伊右衛門は、同じ役ながら異なる演出での苦労が垣間見えたが、やはり南番の方がより生き生きとしていたように思うが、どうであろうか?

扇雀の与茂七とお袖は、意外といっては失礼であるが、北番の与茂七がニンであったように思う。弥十郎はややご本人の真価を発揮するには今回の役は不十分であったと感じたし、それは亀蔵にも言える。少し勿体なかったように思う。七之助のお袖とお梅は、お袖がまだ年齢的には無理があるものの、成果を挙げたと言って良いであろう。北番でお梅を演じた新悟が、伊右衛門を恋するあまりか妙な呼吸法をするのには笑わせられた。

脇役では、源左衛門、小山三、千弥など古参の役者が活躍する南番が安定していた。

「演出」

串田和美演出は、全体としては南番ではオーソドックスを、北番では新劇の要素も取り入れてこの狂言の普遍性を見せようとしていたように思う。南番では、そういう意味では戸板返しや灯籠抜けなどもそのまま見せていたが、最後の本水を使った部分がやややり過ぎで、あざといように感じられた。その点、隠亡堀での水黒子を使った戸板返しなどはあっと言わせる新鮮さがあり、大詰の夢の場や蛇山庵室の地獄落ちの場面も象徴的で、多彩な解釈が可能な幕切れだった。

こう書いてくると、北番が南番より出来がよかったように思うが、観劇後の印象は南番の方がしっかりとまとまっていた感が強かったのが面白い。これは恐らく北番はまだ発展途上にあるのに対して、南番はある程度出来上がったものであるからであろうか。

(追記)勘三郎一門の貴重な脇役―中村源左衛門さんは10月に癌のため亡くなった。この舞台を観たときはまだ大変元気に役を務めていたから、とてもその死は信じられなかった。合掌。
平成18年2月4日、11日、26日(千穐楽)『京鹿子娘二人道成寺』―二月大歌舞伎夜の部観劇記
この夜の部は、『京鹿子娘二人道成寺』に尽きると言っても過言ではない。一昨年正月に同じ玉三郎と菊之助による二人道成寺は、大絶賛を博した。その時の評判が今回の短期間での再演となって実現したものであろう。個人的にもあの時の舞台を観た時の感激は忘れられない。今回はとくに楽しみにして全部で三回観劇した。

再演までの二年間に見せた大活躍と成長振りを如実に表すように、菊之助の舞踊の腕がまた一段と腕が上がった。だから、前回は玉三郎が出ずに単独で踊る山笠踊りや「ただ頼め」の部分などやや舞台が寂しくなるきらいがあったが、今回はまったくそれを感じさせず、一人でも十分美しい花を舞台に咲かせていた。

ましてや、二人となると、振りとしては菊之助を立てて玉三郎が影のような形で踊るのであるが、主役はあくまで玉三郎の花子で、いとも艶やかに舞い、それにあわせるように、また拮抗するように菊之助の花子が舞う。その二人が醸し出す美しさたるや筆舌に尽くしがたい。三階席から観ていても、オペラグラスをどちらに向けて良いか迷ってしまうほどであった。前回の観劇記も自分なりに力を入れて書いたものであるが、今回も重複をあえて恐れずまとめる。

@ 『娘道成寺』ものとしての斬新さ

安珍・清姫伝説から作り上げられた、いわゆる道成寺ものは、その集大成として立女形が踊る大曲舞踊として、『京鹿子娘道成寺』に収斂して行ったことは、その規模の大きさと完成度の高さ、長唄としても比類ない素晴らしい曲、などの点から言っても当然と考えられる。その結果、そのヴァリエーションとして、『男女道成寺』や『奴道成寺』などが出来、この『二人道成寺』もその一つであることは言うまでもない。だから、過去の上演記録を見ても、二人の女形(先輩・後輩、親子、兄弟などの組み合わせ)が花子・桜子として、通常一人で踊るパートをそれぞれ踊り分ける形だったようだ(なかには梅幸、菊五郎、菊之助の三代による異色の『三人道成寺』もあった)。

しかし、二年前の玉三郎と菊之助による『二人道成寺』は、二人花子として「光と影」、「陽と陰」など表現されるように、今までの二人道成寺と異なって、新しい振り付けにより二人がまさに一人の花子が二人に分身したごとく、ある時は同じ振りでの連れ舞い、ある時は鏡像のごとく絡み合い、またある時は仲の良い姉妹、さらにはある時には同性愛者のごとき妖しさをたたえていて、そこに醸し出される比類ない美しさは、観るものを陶酔させ、熱狂させた。

今回の再演は、それがさらに磨きあげ深めてられており、「花のほかには」で白拍子となって登場する時、前回とは違って前に菊之助、後ろに玉三郎と重なっているのは、二人花子の関係がより立体的になり、くっきりと分かる工夫となっていた。

道行の花道の出は菊之助のみで、「さりとては」で玉三郎がスッポンからせり上がるのは、はじめから花子の正体が蛇体だということを見せてしまうことになる、との批判もあるが、それはあまりにも硬直的な考えにとらわれているようで、安珍・清姫の世界は、無限の可能性を秘めた物語伝説である以上、玉三郎の言うように「花子は亡霊であり、ある意味何でもあり」と考え、さらなる新しい発想で道成寺ものをも考えることは、歌舞伎の演目をより豊かにするものだと思う。

A 菊之助の成長による美的洗練度の高まり

初演時は、菊之助が玉三郎の踊りに必死について行く姿が、演目の新鮮さとともに大きな感動と評判、衝撃を与えたが、一ヶ月の興行期間中でも菊之助の踊りの上達度は見違えるほどであった。それから二年、その間の菊之助の成長・充実振りは、『NINAGAWA 十二夜』『加賀見山旧錦絵』『児雷也豪傑譚話』などの主演を通じて目覚しく、今回の舞台でもその成果は遺憾なく、十二分に発揮された。まず何よりも、その匂うがごとく、また溢れんばかりの清潔な若手女形の色香は、玉三郎の外面のみではなく内面的にも成熟した彫りの深い美しさと相俟って、時に溶け合い、時に拮抗する「美の競演」となって、まさに歌舞伎女形舞踊の最高峰を観る思いであった。

もちろん、玉三郎の舞踊は既に余人には真似できないような独自の境地に達しており、「恋の手習い」でも手拭いをたくみに使って、何ともしどけない女の恋の雰囲気を出している。また、瞬間瞬間に見せる鐘への恨みは、その眼の力に鋭く宿っていて、観る者を戦慄させる。一方、菊之助も三段傘のところや、「ただ頼め」での一人での踊りでも、その可憐かつ素直な美しさを出している。その二人が絡み合う「鞠歌」、鞨鼓での華やかな所作、そして鈴太鼓から一気に鐘入りまでに行く早い踊りの部分は、もう眼福としか表現のしようがない。

B 謡と乱拍子

今回乱拍子があらたに付け加えられたが、それは最初中日まで一部変更はあったものの、謡付きであった。それも正確に言うと10日、11日を除き初日〜14日までは斉唱、その二日間のみ菊之助が先に謡い始める輪唱と、三つのヴァージョンが一ヶ月の舞台で試みられたのであった。何故謡が途中でなくなったかは不明であるが、謡がある方がこの二人道成寺には合っていて良かったと思う。とくに私は三回の観劇でそのすべてに出会うという幸運に恵まれたが、謡い付きは乱拍子には相応しいうえ、輪唱は木霊のように聞こえて、分身としての花子を強烈にイメージできたので、このやり方がもっとも合っていたように思う。斉唱も悪くはないが、謡を復活するならば、次回は是非輪唱で聞きたい。勿論、謡いなしでも、それなりにコンパクトにまとまってはいたが。

いずれにしても、この二人花子による『京鹿子娘二人道成寺』は、最近の歌舞伎でも滅多に観ることの出来ない比類ない美しさに溢れた舞踊であった。道成寺ものを語る時、そして21世紀の歌舞伎を語る時には、必ずや引き合いに出される記念すべき上演になろう。また花子、桜子の『京鹿子娘二人道成寺』はもう上演できないほどのインパクトを与えたと思う。さらなる再演で、より進化・発展をも期待したい。

楽日観劇では、奮発して一階席で観劇。花道の出から二人の表情が大変にこやかで、お互いに見つめあう目が本当に仲の良い姉妹のようだった。この一ヶ月間玉三郎は舞台を通じて、菊之助に厳しく教え、また菊之助も必死に付いていったと思うが、時にはぶつかった時もあったであろうと想像する。しかし、楽日の舞台は二人とも一ヶ月やり終えた充足感と満足感がどこか漂っていたように感じられたのは贔屓目であろうか?

その他の演目は簡単に書く。

・『梶原平三誉石切』

通称石切梶原も少々出過ぎと思うほど何回も上演されるので、新鮮味は薄いが、幸四郎の平三は、さすがに手の内に入った捌き役である。ただ、本心を明かしてからのところが、愛嬌があるのは良いがやや軽過ぎる。歌六の六郎太夫がこの人に守備範囲の広さをうかがわせる好演。芝雀の梢は、適役であるが、今のこの人からするといささか勿体ない気もする。愛之助の俣野五郎が、普段とはまったく異なった役でありながら、それを感じさせない見事な赤っ面であった。

・『人情噺小判一両』

宇野信夫作のこの作品は、まったくの初見であるが、人情噺とありながら善意で渡した親の形見の一両が、落魄している浪人の誇りを傷つけてしまい、死に至る、という悲劇で、切り狂言に相応しいものとはとても思えなかった。菊五郎の笊屋安七は誠実で人の良い人間性がよく描かれているが、浅見申三郎が、武士にしてはやや軽薄で、さすがの吉右衛門も持て余していたように感じられた。田之助の小森孫市は武士の意地と落ちぶれた境遇の落差がよく出ていた。唯一の彩りの茶屋娘おかよの松也は、夜の部の全演目を異なった役どころで出ていて、目を引いた。

二月大歌舞伎夜の部の配役、話題と見どころは、こちら
平成18年2月26日(千穐楽):『幡随長兵衛』―二月大歌舞伎昼の部観劇記
・『春調娘七種』

これも曽我物の舞踊の一つ。歌昇の五郎、芝雀の静御前はしごくまっとう過ぎるほどの配役であるが、期待通り、いやそれ以上の力強さ、上品な美しさを見せてくれた。とくに最近このような舞踊になると、芝雀に大変古風な味が濃くなってきて、父雀右衛門にますます似てきた。橋之助の十郎は、もう少し柔らかさが欲しく、やや固い印象を受けた。この人は筋隈の荒事の方がよく似合うようだ。

・『陣門・組打〜一谷嫩軍記』

これは次に続く『熊谷陣屋』が時代物の悲劇としてあまりにも有名であるが、その伏線をなす重要な部分で、源氏の武将熊谷直実が、平家の公達敦盛の首を打ったが、実は後白河院の落し胤である敦盛を助けるために我が子小次郎を身替りにしたという話である。したがって、観る方は花道を引っ込む小次郎が実は敦盛に入れ替わっていることを知っていても、その後の敦盛は同じ役者が演じていても、あくまでも小次郎ではなく、敦盛として演じなければ、そして敦盛に見えなければ、この狂言に込められた浄瑠璃作者の意図にそった悲劇とはならないように思う。 
したがって、今回直実を演じる幸四郎の考えで、花道で小次郎の顔を見せて実は敦盛であることをあからさまにしているのは、興醒めであり、遠くの波間で戦う直実と敦盛を歌舞伎特有の工夫である「遠見」(子役が演じて見せる遠近法の演出)も無いこともあわせて、この舞台は大いに問題のあるものであったと思う。福助の若武者振りと芝雀の玉織姫に存在感があるだけに、惜しいことである。

・『浮塒ともどり』(漢字変換できません)

隅田川の三圍の土手で駆け落ちをしてきたお染久松を、通りがかりの女猿曳がそれと察して、心中しないよう諭す舞踊。先月病気で休演した芝翫が元気に復帰して、情のある女猿曳を見事に踊って見せてくれただけで十分見応えがあった。菊之助のお染も大店のお嬢さまらしいたおやかな美しさと清潔な色気のクドキも満足すべきものだった。ここでも橋之助の久松は、ニンではないと感じた。

・『幡随長兵衛』

昼の部一番の見もの。侠客幡随院長兵衛と旗本水野十郎左衛門の対立を軸に、長兵衛の男伊達と死を決して、妻子とも別れて、水野の屋敷に赴き、湯殿で最後を遂げるまでを描く。

吉右衛門の長兵衛が、今の歌舞伎役者のなかで他に思い付かないほどの極め付けとでも言うべきはまり役。男気があり、自分の死を賭してまでも、江戸っ子としての意地を貫こうとする役作りは、男でも惚れ惚れするようなかっこ良さであり、思わず「播磨屋」と声を掛けたくなる。

菊五郎の水野も旗本の矜持を強く出しており、玉三郎の長兵衛女房お時も出番は少ないながらも侠客の女房としての覚悟を見せていて、ほかに段四郎の唐犬権兵衛、歌六の同輩の旗本近藤登之助なども手堅い。前半の村山座の劇中劇「公平法問諍」も何度観ても、うまく出来ていて面白く、團蔵の公平は荒事振りと一転してからの惰弱ぶりの対照が光っていた。

二月大歌舞伎昼の部の配役、話題とみどころ見どころは、こちら
平成18年1月14日:『仮名手本忠臣蔵』五・六段目、『蜘蛛絲梓弦』―新春浅草歌舞伎第二部観劇記
今年の新春浅草歌舞伎は、昼夜共通の出し物である『仮名手本忠臣蔵』五段目、六段目を第一部と第二部で勘太郎・七之助の兄弟が勘平とお軽役を入れ替えて演じている。他に定九郎を亀鶴、獅童で、千崎弥五郎を亀治郎、亀鶴でそれぞれ変えている他は、門之助、男女蔵、源左衛門、芝喜松などは同じである。

・『仮名手本忠臣蔵』五段目山崎街道鉄砲渡しの場、同二つ玉の場、六段目与市兵衛内勘平腹切の場

五段目、六段目を幕間なしで通して上演したから、およそ二時間の長丁場であった。勘平が舅の与市兵衛を誤って鉄砲で撃ったと思い込み、お軽と別れて腹切りに至るまでの悲劇であり、新春の狂言としてはかなり重いものにもかかわらず、まんじりともしなかったほど舞台に集中して観ることが出来た。それは何よりも勘太郎の勘平役が、音羽屋型で大変しっかりと演じていたからだと思う。千崎弥五郎に偶然出会って、仇討ちに加わるための醵金を約束し、その後猪と思って撃った二発の鉄砲は、舅与市兵衛を殺して五十両の金を奪った定九郎に当たったのであったが、暗闇でそれとは知らず定九郎の懐から金を盗って花道を引っ込むまでの五段目では、猟師に身を落としていても、塩谷の侍としての品と矜持を見せていて、仇討ちに加わりたいとの一途さがある。

しかし、勘平が家へ帰ると祇園の一文字屋の女将お才と女衒の源六が来ていて、与市兵衛がお軽を祇園の遊女に売っており、その手付けの半金を昨夜渡しているから、お軽を連れて行くという。不審に思いながらもだんだん話を聞いているうちに、縞の財布が同じことから自分が殺して金を奪ったのは舅だと気がついた時の驚きよう。そして恋女房お軽との悲しい別れ。姑のおかやから舅殺しと責められて、やってきた千崎弥五郎と原郷右衛門の前で腹を切る。それが誤解だったと分かり、一味の連判に連なることを許されて死に行く。髪も徐々にざんばらとなり、血塗れた手の跡が頬につくなど、型通り演じているのだが、ところどころ熱演のあまり上滑りするところもあるものの、勘太郎は実年齢的にも等身大の勘平が腹を切らざるを得ない悲劇を見事に演じ切っていたと思う。有名な「色にふけったばっかりに」などの台詞も聞かせどころたっぷりであった。腹切の場面は驚くほど父勘三郎に似ていた。

対する七之助のお軽は、とても楚々としていて、美しい。亀鶴の弥五郎がきびきびとしていて、見ていて気持ちよかった。門之助のお才は手堅い。しかし、この舞台の厚みがより増し功績は、源左衛門の女衒源六と芝喜松の姑おかやの二人の存在にある。とくにおかやは舞台に出ずっぱりであり、勘平と絡みながら、勘太郎を支える重要な役どころであるから、芝喜松の好助演は特筆大書して良いであろう。

・『蜘蛛絲梓弦』

これは亀治郎が今回新たに工夫した浅草オリジナル版とのことで、新春らしい大変華やかな変化舞踊である。源頼光を狙う蜘蛛の精が六変化の早替りでいろいろな人間に化けて踊り分ける。セリもスッポンも使えない劇場だから、どのような早替りを見せてくれるか興味津々であったが、そのハンデを逆手に取り、期待以上の驚くような出方と早替り、そして引っ込みを見せてくれた。亀治郎が伯父猿之助から学んだ観客を喜ばせ、惹きつけるような見せ場を十分心得た六変化だった。踊りは定評のある亀治郎であるから、どれもうまいが、強いてあげれば番新と座頭が面白かった。これは、亀治郎の当り役になると思う。

替わる順番は、次の通り。
1.童 熨斗丸 (地方の山台の下から登場)
2.薬売り 彦作 (担ぐ薬箱の登場のさせかたが面白い)
3.番頭新造 八重里 (この役が一番ニン、茶目っ気十分)
4.座頭 亀市 (飛び去り方が見事)
5.傾城 薄雲 (勘太郎相手にたっぷりと踊る)
6.女郎蜘蛛の精

番新以外はどれも蜘蛛の糸を盛大に投げる。最後に女郎蜘蛛の精になってからは、ぶっかえりの衣裳もきらびやかである。また、この時の口跡が猿之助が出てきたのではないかと思うほどそっくりであった。勘太郎、獅童、七之助との立ち回り、歯切れ良く揃った足拍子など心地よい。勘太郎の頼光が爽やかである。七之助の赤っ面が、似合っていたのは意外な発見であった。重い忠臣蔵の五・六段目の後に、このような舞踊は観る者にカタルシスを感じさせてくれて、楽しい打ち出しとなった。
平成18年1月4日、9日:『曽我梅菊念力弦』-国立劇場初春歌舞伎観劇記
江戸時代の正月狂言には吉例として『曽我狂言』が出され続けたことはよく知られている。曽我狂言とは『曽我物語』を題材にして、手を変え品を変えて趣向をこらして、曽我十郎・五郎が親の仇工藤祐経を首尾よく討つ話である。しかし、五郎は捕らえられ、時の将軍源頼朝に処刑される。ここから、五郎は御霊に通じることから、御霊信仰の対象となり、曽我狂言は御霊となった五郎の荒ぶる魂を鎮めるための江戸庶民の呪術的・宗教的祭祀となったとは、丸谷才一が『忠臣蔵とは何か』で喝破したところである。

しかし、江戸時代であっても時代とともに、曽我物語の部分はおめでたい「対面の場」(現在では例えば『壽曽我対面』が有名であるが、当時は多数の対面の場があったようである)として残しながらも、その時代物に世話物をあわせて狂言作者は芝居を書くようになってきたようである。今回の『曽我梅菊念力弦』も大南北が1839年に書いた物の186年振りの復活で、世話物の要素が強いと聞いていたが、実際に観てみるまでどのようなものかまったく予想が付かなかった。

筋書きを読むと世話物も「おその六三」と「おはん長右衛門」の二つが綯い交ぜになっているとあるが、あまり馴染みの無いものだから、話がよく分からないのではないかと危惧しながらの観劇だった。ところが、それはまったく杞憂だった。人物関係は複雑で、登場人物も多いが、少しも難解ではなく、舞台を観ているのみでも話はよく理解できる。また、とにかく世話物としても江戸庶民の生活や季節感を背景に、菊五郎・菊之助の音羽屋親子による二組の男女の色模様が艶やかに、またカッコ良く描かれており、その美しさにはしばしば陶然となった。

細かい粗筋はとてもここでは書けないが、まず吉例の「対面」からして通常とは違って、最初は世話物風になっていて、おや?と思わせておいて、ようやくお約束の対面になっても、五郎のみで兄の十郎が出ないうえ、小林朝比奈も出ないから、様式性は乏しいものの、逆に対面の骨格がよく見えてくる。だから、座頭級の役者が演じる工藤祐経という役の大きさがより必要だが、今回は富十郎が情理兼ね備えた非常に恰幅のある祐経だった。

大工の六三郎と盗賊の首領徳次郎の二役を演じる菊五郎が、すっきりといなせな色男と悪のニヒルさと色悪を演じ分けていて、これはまさにぴったりの適役だった。対するおその・おはんの姉妹は菊之助の二役で、白無垢姿は若女形としての清潔な色気が、また芸者姿はこぼれそうな色っぽさがあって、久し振りに菊之助の女形をたっぷりと堪能できた。二役がどちらがどちらか分からないとの声も出るであろうが、これはどう見ても南北がわざと別けて書いていないと感じたので、これはこれで良いと思う。

その他に田之助の後家おかや、彦三郎の福島屋清兵衛のベテランをはじめ、團蔵、芝雀、萬次郎、権十郎、信二郎、亀蔵、松緑、松也など豪華な顔ぶれで、しかも菊五郎劇団が総出演と思うような多彩な役者が脇をがっちりと固めていて、見せ場の大詰めの藤棚での大立ち回りも鮮やかで、楽しめた。

また、四幕目の仲町洗湯の場で江戸の湯屋の、また五幕目では両国の見世物小屋の風俗を描いており、なかなか新鮮だった。とくに洗湯の場はここまで歌舞伎の舞台に出していいのだろうかと思わせる意外性があって、面白かった。この復活狂言、まずは上出来の成功と言えるであろう。


トップへ
トップへ
戻る
戻る